講評:村川拓也氏
総評
今回の京都学生演劇祭では、演劇祭自体のコンセプトをはっきりさせたことがとても良かったと思います。僕は審査員をやらせてもらったので、特に審査員特別賞の審査コンセプトや、審査員選定理由がしっかりと明記されたことによって、審査員としての役割を十分に解釈、理解することができました。また、京都学生演劇祭の「記憶」と題されたレポートもこの演劇祭を理解する上で、すごく重要なものであったし、京都学生演劇祭に歴史と未来への長い視野を付与する充実した資料だったと思います。僕は、学生演劇祭にフェスティバルディレクターのような人を立てる必要はないと思うけど、ある程度、演劇祭自体の「ねらい」のようなものは必要であると思っています。じゃないと、普段自分たちがやっている公演の状況と何も変わらないと思うし、そうだったら演劇祭に参加する意味がないと思うからです。演劇祭の「ねらい」を考えることは、現在の京都の学生演劇全体の動向やこれからを考える事に繋がると思いますし、つまりは、自分たちが今どのように何を考えて演劇を作っているのかを改めて真剣に考える機会になると思います。演劇祭参加=社会性を得る、とはまったく思いませんが、演劇祭に参加する事によって、自分たち自身をすこしでも俯瞰して見ることができれば、これからの皆さんの作品づくりにとってきっと良い経験になると思います。来年もがんばって下さい。
A-1 劇団未踏座『懐かしき家』
いくつかの団体にも言えますが、音楽や効果音で作品の雰囲気を作りすぎていると思いました。作品が始まるとき、暗転とともに音楽がかかって、劇の世界に入っていく。これは確かにひとつの方法だと思うけど、観客はそういう始まり方をよく知っているし、ほとんどの観客がこのやり方に飽きているんじゃないかと僕は思います。そういう始まり方をした瞬間にこれからどんな作品が上演されるかが一瞬でわかってしまう。始めの始めからもうわかったという気分になると、もう観る気すらなくなってしまう。もちろん、こんなことを思うのは観客全員ではないけれど、もっと観客を裏切るような、驚かすような作品の作り方を模索しても良いんじゃないかと思いました。
A-2 劇団なかゆび『45分間』
テロ、宗教、事件、思想、死、神、世界情勢と日本、政治などなど、日常生活を淡々と送っていると社会や世界の問題になかなかリアリティを持てないと思います。ましてや、学生である若い人達にとっては、今の自分が抱える個人的な問題や、お金や恋愛とかそういうことばかり気になってしまうと思うので、特に上に書いたような主題はなかなか手を出しにくいと思います。でも、この劇団なかゆびは、果敢に社会的な主題を扱おうとしていました。若いのに意識が高いなと思いました。主題をどのように設定し、どのように取り組み、何を目指しているのかは正直わかりませんでしたが、結果としてそのわからなさ自体がこの作品のもっとも良い部分なんじゃないかと思いました。主題は重たいものばかりでしたが、後半になるにつれて二人の俳優がただただ必死で動きまくり、しゃべりまくるようになってからは、彼らは演劇の時間を作る事だけに専念し始めました。セリフも聞き取れないし、何をやっているのか意味が分からない。ただ必死で舞台上を駆け回り、ただ言葉をしゃべりまくるだけで十分演劇の時間をつくれていると思いました。演劇は主題やテーマや物語だけではなく、人がしゃべり、動くだけでまずは成立するのだなと改めて思いました。ただもう少し、観客との関係を考えても良かったんじゃないかと思います。「これを観ている」観客自体を作品の内部に取り込む方法はないでしょうか。上演中に一回、観客全員を外に出して、劇場の中では上演は続いている時間とかを作っても良いんじゃないかと思いました。
B-1 雪のビ熱『きかざって女子!』
観客が沸いていた。すごくうけていた。女の子三人の等身大のコメディだと思いました。観客は学生が多いと思うので、自分たちが普段感じている恋愛とか将来の不安とか友達の問題とか、そういう部分で共感した人が多かったんじゃないかと思います。ただ、学生が学生のためにやっているだけだと、あまりにも世界観が狭すぎるんじゃないかと思いました。と、思ってじゃあ例えば自分はどうなのかなと、はたして自分の作品は広い世界観でやれているのかと、反芻してしまいました。もしかすると、僕も結局狭い世界でしか通用しない作品を作ってしまっているんじゃないかとか、わかる人にしかわからない作品でしかないんじゃないかとか、などなど。必ずしも世界を広く捉える必要はないけれど、無意識でだめな方向に行かないように気をつけないといけません。雪のビ熱も僕も。
B-2 劇団月光斜『メルシー僕』
母と息子、二人の登場人物にそれぞれ心の声役の登場人物二人。一人の登場人物に二人の心の声があるので、つまりは三人で一人の人物をつくりあげる。こういうやり方は面白いのですが、かえって実は観客が想像する隙間をすべて埋めてしまっているんじゃないかと思いました。例えば母と息子だけの二人であれば、彼らが言葉にしない感情や考えは観客が想像できるわけですが、心の声を実際に俳優が言ってしまうと、その心の声以上の想像を観客はしなくなるんじゃないでしょうか。「観客の想像に任せる」という演劇のもっとも基本的な技術を使わないのはもったいないなと思いました。ただ個人的には、観客に想像する隙間を与えないタイプの作品は好きなのですが、これがどうすればそういうことができるのかなかなか難しい。目の前のものを見ているだけ、なにも想像しない作品を作る機会があった時、この作品の方法は参考になるなと思いました。
B-3 劇団べれゑ『炬燵』
最初はほんとうにすべてがよくわからなくて、衣装も派手だし、顔白塗りだし、出演者多いし、黒子のスタッフもいっぱいいるし、お話も情報量が多いし、照明すごく変るし、次のシーンのための転換の時間がシーンより長いし、観客が置いていかれるというか、観客を無視して舞台上だけで、自分たちだけでやっているような感じで戸惑いました。でも、これは劇団なかゆびと同じような効果なのかもしれませんが、観ていてあまりにもわからなすぎてだんだん面白くなってきました。なんでかなと考えると、たぶん観客は作り手が何をやっているのか理解できないとき、別のものを観ようとするからだと思います。もう作り手の意図なんか関係なく、この人達はなんでこんな事をやっているのだろうとか、めっちゃ汗かいて必死でなにかをやろうとしているなーとか、作品とは関係のない視点で見始めるのだと思います。こういう見方は実はすごく重要で、演劇には作品世界の他にもうひとつ「目の前でやっている」という現実的な視点が必ず存在するからです。終盤、一人の俳優が「こんな裁判やめてしまいましょう」とセリフを吐いたとき、僕は思わず笑ってしまいました。僕には「こんな劇やめてしまいましょう」と聞こえたからです。それは、役としての人間ではなく、役を演じる前のその人自身が客観的になって、「この作品は壊れているのでもうやめましょう」と言っているように聞こえました。そうやんな、と納得して笑ってしまいました。
C-1 劇団西一風『ピントフズ』
積極的に世界を作るのではなく、受動的に世界を受け止めるような作品だと思いました。作るとか、やるとか、到達する、とか前に進もうとする作品が多い中、この作品がだけが唯一、止まっているというか、ただ突っ立ってる感じだったように思います。その点がすごく良かったと思います。ただ、コントとかコメディとかの笑いの感覚が漂っていて、実際すごくうけていたのですが、僕は別に笑いはいらないんじゃないかと思いました。本当に笑えるコントとかコメディとか漫才とかもそうなのかもしれませんが、ほんとに笑えるものは実は笑えないと思っていて、そういうところまで出来上がりつつあると思ったので、「うけねらい」の雰囲気を一掃した方がさらに笑えない(笑える)作品になるのではないでしょうか。
C-2 遊自由不断、『花満たし』
すごく暗い作品だなと思いました。最後に女の子は二人の男から裏切られ絶望する。ラスト5分のどんでん返しはすこし驚きました。そー来たか、という感じでしたが、いくら物語を突飛な方向に向けさせてもすぐに観客は、そのパターンねと飲み込んでしまいます。たぶん、いくら物語を屈折させても突飛で巧妙なプロットにしようと、それは演劇のおもしろい部分とはあまり関係がないんじゃないかと思います。言葉は、どんなに初めは新鮮で熱がこもっていようともすぐに新鮮さや熱は観客の中で腐っていくし冷めていくと思います。これは演劇に限った事ではなく、言葉の宿命だし言葉を使った物語の宿命だと思います。そうであるとき、言葉を諦めるのか、それでも開き直って果敢に言葉の可能性を探るのかは、言葉を使うしかない自分たちにとって与えられた大きな問題だと思います。
C-3 ソリューションにQ『ハムスターの逆襲2106』
ハリウッドのアクションやSF映画を観すぎているせいなのかもしれませんが、全作品の中で一番、作品世界を具体的に想像しました。今まで観てきたアクション/SF映画の風景や小道具やキャラクターやモンスターや異星人のイメージがすでに自分の中にすごい量あるのだなと気付きました。だから観劇中、ずと自分の中にある映画のイメージを取り出し、パッチワークしていたように思います。観客の中にある無意識のイメージを操作する作業というか、それを精査したり、勘定したりしてみてはどうか。もしかすると、そういう作り方は結構興味深いのではないかと思います。そういえば前に、ある映像作家が、いくつかのSF映画からいろんなシーンを抜粋して、新たに編集し、いびつなオリジナルSF映画をつくるということをやっていました。それに近いかもしれません.。
D-1 劇団速度『破壊的なブルー』
やっている事はコンセプチャルというか、さばさばしているのに、俳優がフィクションの世界にいようとし過ぎ、役割に没頭しすぎていてバランスが少し悪いなと思いました。俳優はもっとラフな状態、たとえばただ台本の指示に従うだけの状態、普通の状態で取り組めばもっと良くなると思いました。そのことに通じる事ですが、プロジェクターで映される台本の言葉(指示)と目の前で行われる行為にズレを感じました。言葉(指示)に書いてあるのに俳優がそれに従わなかったり、従ってもタイミングがズレていたり、余計な演技がはさまっていたり。そのズレをどのように考えているのかが伝わってこなくて、ズレの効果が不明なまま時間がすぎていってしまいました。「男は水を飲む」という指示の時にはタイミングよく男は水を飲むべきだし、どのように水を飲むかという演技は全く要らないと感じました。ただ水を飲めば良いと思います。この作品のもっとも基本的で面白い部分は言葉(指示)に従うという事だから、そこに過剰な演技やフィクショナルな雰囲気は必要ないし、ただ指示に従うことを執拗に繰り返した結果、ようやく何かが生まれてくるのではないでしょうか。こういう作品は、我慢が必要です。安易に演技をしないのが得策だと思います。赤い布にくるまっている女の人は、布の下は下着姿の方が良いと思いました。
D-2 幻灯劇場『虎と娘』
Noda map的で完成度も高く、俳優の演劇も上手で高評価でしたが、僕にはその良さが分かりませんでした。なかでも、言葉遊びのセリフ回しに違和感を感じ、聞いていて少し恥ずかしくなるというか、ただダジャレを連発しているだけというか、おやじギャグの滑稽さのようなものを感じました。ただこれは、僕が本当にこの手の演劇をあまり観た事がなく、面白く思った経験がないので、見方そのものを知らないだけなのかもしれませんし、このような作品はこの世界にたくさんあって、きっと現代演劇の主流はこういう作品なんだろうなと思います。演劇にも色んな種類があって、どうしてもジャンルが存在するのだなと感じます。どんな種類の演劇であろうと演劇であるという事に変わりはなく、すべてひとつの演劇として話を始める事の難しさやもどかしさを感じます。現状として演劇が明確にジャンル分けされているわけではなく、大きく「演劇」として作り手も観客も捉えていますが、今後、演劇が明確にジャンル分けされる日が来るのでしょうか。そしてそのことは良い事なのでしょうか。今はわかりませんし、明確に分ける必要があるのかもわかりません。日本のメインストリームの現代演劇にあまり影響を受けずにやってきた僕にとっては、これからもずっともどかしく感じ続けるのだと思います。
D-3 劇団紫『木のせい』
俳優が主体なのではなく、セリフや物語が主体になっているなと思いました。セリフに俳優が無理矢理あわせている感じがしました。観客がまず観ているのはセリフや物語ではなく、目の前にいる俳優なり具体的な美術なりライティングだったりします。あなたは誰で、あの小道具は何で、ここはどういう場か、そういう現実的な面をまず観ていると思います。だから開始早々、役柄やセリフだけで観客を劇世界に引っ張るのは、無理があると思いました。始まり、観客はまだ世界を知りません。あなたたちが誰なのかも知りません。放っておいても観客は作品につき合いません。僕はそう思うので、どんなことでも構わないので、まずは作品と観客をつなぐパイプのようなものを作品の始まりに用意した方が、より観やすくなると思いました。あまりよくないアイデアですが、なにも思いつかない場合はとにかく、「ようこそ、私達は今からこういう作品をやります」とかでもなんでもいいので、客席と作品を繋ぐアイデアが必要だと思います。
E-1 青月ごっこ『お悩み、遅っくおん!』
京都教育大学だけあって、すごく道徳的というか教育的な印象でした。昔、学校の体育館で観たことあるような演劇観賞会の感じがしました。しかし、別に面白くなかったわけではなく、楽しく観ることができました。メッセージがはっきりしていた分、観やすかったし分かりやすかったです。演劇でも何でもそうですが、「何を伝えたいか」ということがすぐ問題になります。なかなかそれに答えるのが難しいと思っている人は多いのではないでしょうか。僕もよく人に聞かれます。たしかに難しいですね。でも青月ごっこの作品は、何を伝えたいかがはっきりしていて、観ていて気持がよかったです。なんだかわからない感情や、うまく答えることができない状態を直接表現してしまうよりも、時には観客が理解しやすい教育的な道徳劇のような演劇も必要なのではないかと思うことができました。教育することを念頭に置いて、演劇を作り続けてみるのも良いのではないかと思います。あまりそういうことをやっている人は少ないし、劇団の面白い特徴になり得るのではないでしょうか。
E-2 劇団月光斜TeamBKC『Sensibility』
講評会でもすこし話に出ていましたが、密室劇ならではの緊張感がちょっと欠けていたと思います。たぶん密室劇の一番重要な事は、密室の中ではなく外の世界のリアリティをどのようにうまく表現するかだと思います。昔、「CUBE」という密室劇の映画ありましたが、あの映画が面白かったのは、外の世界の広がりを感じる所でした。しかも、密室と外という分け方に留まらず、外はすでに中になっているんじゃないかとか、この密室が何かの外になってしまっているんじゃないかとか、そういう世界の空間認識が反転したり浸食したりする感覚が、あの人を殺すだけのミステリアスな箱の密室感に緊張感や不安感を与えていたのだと思います。劇場の中と外の世界、というのはいろんな作家が考えていて、実際にそのことをテーマにした作品も多く上演されていると思います。おそらく密室劇を成立させるためには、物語や作品世界だけに没頭するのではなく、上演している場所とその外の世界という大きな枠組みから考えないといけないと思います。野外で密室劇をやってみるのも良いかもしれません。
E-3 スーパーマツモト2『泣けるモラル』
作者、戯曲、構成、演出、などの演劇を支える基本的な構造を無視している感じで、初期衝動だけがあるという感じで良かったと思います。初期衝動なので始めから壊れているし、壊れている事が始めから観客にも伝わっていたので、戸惑う事なく作品を見始める事ができました。この作品が劇団なかゆびとか劇団べれえの分からなさの良さと違うのは、はじめから分からないという事であって、分からない前提で観始めると、観客は作品から何かを捉えようと必死に集中して観るのだと思います。起承転結を使った物語は見えて来ないけど、ときどき、ちらっ、ちらっと作品の核心部分が見えてくる。ひとつずつ積み上げていくタイプの作品ではなく、全体で、俯瞰した状態で観るという感じでした。テーマはタイトルにもありますが、モラルについて。特に日本人のモラルを問題にしていたのだと思います。モラルとは倫理感、道徳意識です。初期衝動でモラルを問うというのはすごく正解というか正確なモチベーションだと思います。モラルを問うために、例えば戦争とか韓国との関係とかキリスト教とか日本の会社の朝礼とか、いろいろな題材を扱うわけですが、それらの題材が何のために用意されているかというと、実は俳優とはどういう存在なのかを問うためなんじゃないかと感じました。なぜかというと、全作品の中でこの作品が一番、俳優たちの存在が不安定で、その不安定さにすごくリアリティを感じたからです。ひりひりとした不安を抱えながら立っているように感じました。俳優のモラルとはなにか、観客のモラルとは何か、演出家のモラルとはなにか、すべて今目の前で行われている現実にモラルというバイアスがかかっていて、演劇を見る体験としてはすごく正しい緊張感があったと思います。この緊張感はつまり現実社会や現実生活の緊張感につながり得ると思いました。
【プロフィール】
1982 年生。演出家・映像作家。2005 年、京都造形芸術大学卒業。2009 年まで、地点に演出助手として所属。独立後は演出家として活動を開始し、ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を用いた作品を様々な分野で発表している。主な作品に 、『ツァイトゲーバー』 ( F/T11 公募プログラム、大阪市立芸術創造館/2011、2012) 、ドキュメンタリー映画『沖へ』 (2012)、『言葉』(F/T12 主催プログラム)、AAF リージョナル・シアター2013『羅生門』(2013) 、『エヴェレットラインズ』(2013)など。『ツァイトゲーバー』は各地で再演され、2014 年5 月にはHAUHebbel am Ufer(ベルリン)の「Japan Syndrome Art and Politics after Fukushima」にて上演された。セゾン文化財団助成対象アーティスト。
【事前メッセージ】
僕は学生演劇の経験がありませんし、演劇の先輩面をして学生の人達に物申したいこともないので、なかなか応援コメントと言われても言う事がないのですが、作品を観た後ならその作品について話をする事はできるし、応援もできるのではないかと思っています。審査はしっかりやります。がんばってください。
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