講評:杉原邦生氏

総評

僕が“学生演劇”を観に行く気がしないのは、それらの作品がどこに向けてつくられているのかが分からないからだ。いや、分かり切っているように思えてしまうから、と言った方が良いかもしれない。それらは“学生演劇”に向かってのみつくられているように思える。でも、世界はもっと広い。もっと“外”を見てほしい。 今回「京都学生演劇祭2013」の審査員を務めさせてもらい、たくさんの“学生演劇”に触れることができた。けれど、僕のこの“学生演劇”に対する印象が覆ることはなかった。もちろん、たくさんの可能性を感じることもできた。その可能性は、少なからず僕に刺激を与えてくれるものだった。だけど、アーティストとしてやられたぁ!と思わされる作品は、なかった。

「お前らの力はこんなもんじゃねーだろぉ!!」 打ち上げでプロデューサーの沢くんが言ったこの言葉に僕はちょっと感動した。そして、そんな沢くんの言葉に「おぉぉぉぉ!!」と大声でアンサーする学生たちの姿にもちょっと感動した(笑)そして、この学生たちの中から、来年以降どんな作品が出てくるのか、とても楽しみになった。もっともっとこの演劇祭が盛り上がっていってほしいと、純粋にそう思った。こんなにガチで演劇を発信できて競うことができる場って、スゲー貴重なんだから!

最後に、プロデューサーの沢くん、実行委員の皆さん、本当にお疲れ様でした。これから先も、この京都学生演劇祭が長く続いていくことを切に願っています。可能性はまだまだ無限にあると思う。だから、どんどんどんどん盛り上げていっちゃってください!!


Aブロック

飴玉エレナ『転がる紳士たち』

一人芝居で上演する必然性を感じられなかった。「そこには5人のひとがいた。喜。怒。哀。楽。(略)仲間はずれがいた。」という作品解説を読んだ時点で予想される“個人の内に起こる感情の葛藤”の物語がそのまま舞台上で展開されただけだった、という点には目をつぶったとして、この作品を上演するにあたって選択された<一人芝居>という手法が、本当にベストな選択だったのか。個人の内に起こる感情の葛藤を表現するときに、舞台上に1人の俳優だけが存在している。そうなると、もうそれだけで空間にはすでに個人の物語が成立してしまい、5つのキャラクターが実はある一人の人間の内にあるキャラクターであるという作品的な“オチ”は、“オチ”ではなくただの答え合わせになってしまう。それでは面白くない。僕にとってこの上演は答え合わせ作業だった。演出にももっともっと工夫が欲しいと思った。疑いがなさ過ぎる。作品から手法を選ぶのか、手法から作品を選ぶのか、なぜ一人芝居なのか。もっと世の中にあるいろいろな一人芝居を観て欲しい。


演劇実験場下鴨劇場『宇宙の果て。』

出だしから中盤までは観ていてドキドキした。どこにも根拠のない不条理な世界が繰り広げられていたように思えたから。でも、中盤以降、いや、もうすでに白衣の2人が出てきた時点で薄々感付いていた… “精神病オチ”ではないか…!?そして、その予感は見事的中した。残念だった。そんな僕の予感なんか吹っ飛ばして欲しかった。もっともっと不条理に突っ走って、それこそ観客を特別精神治療室ではない“宇宙の果て”へ連れて行って欲しかった。演出的にももっといろいろな工夫ができると思ったし、作品としての完成度は決して高くないけれど、それでも、こんな不条理な劇世界を描こうとする学生がいることに感心したし、勇気をもらった気がした。自分を信じて突き進んでください。


劇団蒲団座

『This is a pen の絶望 〜ミニミニ王国を封鎖せよ!〜』

作品世界がミニミニだった。劇団力は感じたし、勢いもあるのだけれど、集約されていく世界がマンガ(アニメ/ゲーム)的世界に終始納まっていて、それ以上のものを体感させるには至らなかった。世界はそんなに狭くない。このミニミニ王国から見えるドデカイ世界が見たかった。ミニミニ王国がその国民にとってどのような国なのか、なぜ王国を封鎖(脱出)しなければならなかったのか、描き方が単調だと感じた。また、この作品において「落書きだらけの教室」という舞台空間は大きな軸になってくると思うのだけれど(ミニミニ王国も“落書きの国”と言うくらいなのだし)、上演会場が本物の「教室」であるからこそ、舞台上に配置された「らくがき」という嘘(装飾)が余計に際立ってしまい、作品全体に中途半端な印象を与えているように感じた。それと、「筋肉質な男が絶望を持ってやってくる」というシーンはどこにあったのでしょうか。


Bブロック

劇団月光斜『僕と殺し屋とレインポップ』

前半はとても面白かった。前半だけを取ったら抜群に面白かったと思う。テンポも良いし、俳優の動かし方も巧い、ダンスの入れ方も笑いのつくり方も嫌味がない。極めて演劇的な枠組みの中で物語を進めていきつつ、その構造を客観視することも忘れていない。唐十郎の劇世界に通じるような現代社会の混沌さと人間臭さも同時に感じられた。だけど、問題は後半だ。物語の主軸が前半の殺し屋から、同居人の妹・あやめに移った途端、作品は予想もしなかったようなメロドラマに向かっていき、演劇的な構造を生かした演出の歯切れも急に悪くなってしまった。映像演出も必要なかったと僕は思う。急激な方向転換に追いつけず、感情移入ができていない段階でのメロドラマは、感動を強いる安ドラマにしか見えず、ただただ残念だった。個人的な希望としては、もっと殺し屋に大暴れして欲しかった。それでも、前半を観れば演出家としての力量があることは確かだと思うので、今後の活動に期待しています。


コロポックル企画『すぐ泣く』

物語のオチとして、成功率のもっとも低いものの代表が「夢オチ」「精神病オチ」だと僕は思っている。もちろん「夢/精神病オチ」のすべてが面白くないとは思わない。ただ、このオチは時に観客を裏切る気がする。それまでに芝居の中で観客が時間をかけて蓄積した情報、その行為そのもののすべてを無意味に感じさせてしまう危険性がある。この作品はいわゆる「精神病オチ」だった。まず、自らを神だと言う女性が白衣で登場し、その後、さらに2人の白衣姿の男女が登場した時点で、まさか…とは思っていた。そして、その“まさか”だった。このオチを成立させるためには、物語展開や演出にかなり緻密な計算が必要だと思う。もっと練り込んで欲しい、と単純に思った。また、「雨の日の物語」であるという設定にどんな狙いがあったのかも分からなかった。ルパンの歌はハモリも含めて良かったです。


虹色結社『はこにわ』

神にまつわる物語であることは分かったけれど、物語の主軸がどこにあるのか、主題が何であるのか、僕には伝わってこなかった。神社の拝殿にいる男(=神?)と、その神社にやってくる人々との関係性が構築されるわけでもなく、つのが生えてきた男とその母、カップル、男子学生2人組などそれぞれのシチュエーションがただ並列に語られていく。その各々のシチュエーションに“神”という存在がどう関わっているのかが分かりにくい。扱うテーマの大きさの割には、こじんまりしていて、世界が狭い。演出的にもいろいろと工夫の跡は見えるが、それらが効果的とは思えなかった。例えば、オープニングで俳優たちに貼付けられた、自身の名前と役名が書かれた札を剥がし板に貼付けるという行為に、どのような演出的狙いがあったのか。もっと様々な角度から作品を見つめ、練り上げていって欲しい。思っているほど、観客は優しくない。


ヲサガリ『それからの子供』

小学生という設定に無理がある。いや、演劇は想像力の芸術であるから(俳優はだいたいの場合、他人を演じるのだし)、「無理がある」ということはそもそも前提とされている。でも、だからこそ、観客に「無理がある」という前提を肯定させるために“演出”があるはずなのに、この作品にはそういう意味での“演出”が存在していない気がした。例えば、身体の動きひとつ取っても、演出的な戦略がなさ過ぎる。「小学生に見えないけれども小学生を演じている」という演劇的構造を露わにさせながら展開するわけでもない。演出的なリアリティの在り処が見えてこなかった。それはテキスト(台本)レベルについても言えることで、果たして舞台上で発せられる言葉や会話に“小学生として”のリアリティがどれだけあっただろうか。どれだけの観客がどれだけの時間、舞台上の俳優を(言葉の説明としてではなく)“小学生として”認識できたのだろうか。もっと自分たちがやろうとしていることを疑い、貪欲に突っ込んでいって欲しい。そこから表現は生まれると思う。


Cブロック

KAMELEON『新しい下宿人』

イヨネスコのテキストを無駄なく丁寧に立ち上げられていると感じた。そこには好感を持った。ただ、それだけだった。この作品をいま上演するという行為が、この劇団(演出家)にとってどのような意味を持つのか、何を伝えたかったのか。既存の戯曲を上演する場合、必ずそこが問われる。他人の言葉によって作品を立ち上げようとする行為は、とてもいびつな表現行為だ。だからこそ、演出家の作家性が露わになる。今回の上演の場合、『新しい下宿人』という作品そのもの以外のことが伝わってこなかった。それが残念だった。また、空間の使い方にももっと工夫が欲しい。次から次へと運び込まれてくる家具は何であるのか。また、家具で埋まっていく部屋は何であるのか。主人公の男が求めたことは何だったのか。これらの問いに演出家としての明確な回答があり、それが舞台上に現われてこそ上演の成功と言える、と僕は思う。今後の活動に期待しています。


劇団テフノロG『空想世界の平均律』

世界が狭すぎる。携帯電話とかインターネットの中に自身の世界を見出だし、その中の物語を中心に生きる人間の日常に、僕はまったく興味を持てなかった。仮に、その物語がとてつもなく魅力的だったら印象は違ったかもしれないが、ここで展開する物語はありふれた形の「恋愛」でしかなくて、そんなものは携帯小説かなんかでやってくれれば良い。わざわざ舞台に上げる必要なんてない。わざわざ舞台に上げるのなら、わざわざ上げる必然性が欲しい。テキスト(台本)レベル、演出レベル、どちらに於いても。オンライン上(ゲーム/チャット)の世界と日常世界、主人公にとっての世界の曖昧さも、舞台表現としての曖昧さとしてしか伝わらないし、「日常のほとんどを物語の中で過ごしている人間にとっての現実世界」が一体本人にとって何であるのか、どこに現実世界があるのか。そこを見つけることから世界は広がっていく気がする。


劇団愉快犯『作り話』

この作品において、会合の目的が何かという“謎”が物語を動かす主力になっているから、その“謎”を会話のリアリティを保ちながらどこまで引き延ばしていけるかということが、テキストレベル・演出レベルどちらに於いても重要な鍵となってくるはずなのだけれど、観客としてその謎を追い続けるための“リアリティ”が崩壊しているために、僕は観ながら“謎”ではなく“疑問”を持ち続けることになってしまった。もちろん、演劇におけるリアリティは作品によって異なる。会話の自然さや、シチュエーションの日常性、空間の作り込みが必ずしもイコール“リアリティ”になるわけではない。演劇は自由でいい。だが、この劇が狙う“リアリティ”の在り処はどこにあったのか。それが明確に提示されていれば、会話の不自然さも、シチュエーションの非日常性も、空間演出の弱さ(まずバーに見えないし、そもそもドアや机など具体的なものが並ぶ中でなぜ電話がジェスチャーなのか?)も、説得力のあるものになったかもしれない。リアリティの居場所がない舞台上では、全員が同じ孤児院にいたという無理のあるオチも、ケンイチの両親の過去が明かされるベタなメロドラマによる回収も、ただの失敗だ。もっと、いろんな演劇を観て欲しい。


Dブロック

喀血劇場『わっしょい!南やばしろ町男根祭り』

とても面白かった。まず、導入が素晴らしかった。いきなり褌姿の男が太鼓を打ち鳴らし、道着姿の女が空手の型を披露するシーンで心を奪われた。意味が分からなかった。でも、その「意味のわからなさ」はしっかりと演出的に意図されたものだとすぐに分かった。そこから展開する下ネタの連続も、しっかりと演出的意図のあるものだった。こういうものを「下ネタ演劇」とは決して言わない。それが(観客にとって)この作品を否定する要素になっているとしたら、それは違うと僕は思う。現実を観て欲しい。舞台上に展開している現実を観ることから演劇は始まる。分かりやすくてクリーンなものもそれはひとつの表現ではあるけれど、世の中の現実は違う。もっと混沌としていて汚い。その混沌と汚さの中に人間本来の切実さがある。この作品にはそれが描かれていた。だから、僕は文句なしにこの作品が一番面白いと思った。 俳優演出や構造演出も巧かった。後半少し失速する感じはあったけれど。


劇団立命芸術劇場『行き当たりばったり』

僕がもっともショックを受けた作品。パンフレットの劇団プロフィールにあった“会話重視”“リアリティの追求”“本物に近い世界を再現”という言葉をこの劇団がどう考え使っているのかがまったく理解できず、脳みそをグチャグチャにさせられた。それはそれで僕にとっては刺激的で楽しい体験だった。でも、褒めることはできない。 会話の不自然さ、リアリティのなさ、演出の荒さすべてがとても気になった。僕にとって、この作品そのものが「行き当たりばったり」にしか思えなかった。思いついたことをそのまま繋げて舞台上にあげているだけのような気がした。疑いがなさすぎる。稽古場で自分たちがやろうとしていることを疑ったことが、皆で疑問をぶつけ合ったことがあっただろうか。そういった疑いから、作品は深まっていくはずだ。純粋に、もっと演劇というものを知って欲しい。


劇団紫『天使のはなし』

この劇の特徴は、主人公・なぎのモノローグと対話が並列して展開することにあったと思うのだけど、その手法に僕は違和感を持ち続けてしまった。舞台上で起こっていることと、なぎの心情の全てをとにかく説明しまくるモノローグを聞き続けることが面倒臭かった。 例えば、舞台上である男が「おはよう」と言うとき、観客はその「おはよう」という言葉の情報と、その言葉を発した男の身体の情報を同時に受け取っている。その「おはよう」という台詞のあとに「と僕は言った」と説明が入ると、一旦受け取った“男が言葉を発した”という情報を繰り返し受け取ることになる。それはかなり面倒臭い。分かってるよそんなこと、と思ってしまう。観客の視線や想像力をなしとしているようにも思えた。主人公の心情風景を作品化するという意味では、この手法は理屈が通っている。けれど、演劇という手法が本当にベストだったのだろうか。小説、または朗読劇のほうが良かったのではないだろうか。そう思わせてしまっては、演劇表現としては失敗だ。演劇においてモノローグは常識的な手法だし、その手法を多用すること自体を否定はしない。ただ、ある手法を選択するときに、その手法を用いる必然性と、その手法に対する疑いからもたらされた確信が必要だと、僕は思う。


Eブロック

コントユニットぱらどっくす『ノアのドロ舟』

題材や発想の出発点は面白いのに、つくり手側がそれらに自覚的でなかった。1本目、アイドルが増え過ぎて一般人が希少な存在になった世界設定は面白い。アイドル文化、容姿ヒエラルキーなどに対して批評性を持ちながらシニカルな笑いとして発展させられそうな要素は揃っていた。2本目、舞台を観て笑う観客を実際の観客席に仕込むというメタシアター的な導入部分に期待させられた。3本目、旧約聖書「ノアの方舟」を題材に、壮大なテーマをどのようにコントとして展開していくのか興味深かった。でも、どれもすべてアイデア止まり、思いつきの域を脱さない。膨らむどころか、ネタとしてしか扱われない。とにもかくにも、最初から最後まで僕は一切笑えなかったので、まずコントとして成立していないと思った。劇場は、サークルの飲み会でもなければ、正月の親戚の集まりでもない。まずは、見知らぬ観客を想定して作品をつくって欲しい。


同志社小劇場『国道X号線、Y字路』

スタートダッシュでつまずいた感じがした。劇の始まりはとても大事だ。どのように観客を劇に誘導するのか。特に、この作品のように観客に話しかけるモノローグスタイルならば、なおさら慎重且つ緻密な計算が必要とされる。観客との距離の取り方を見誤っている気がした。そもそも観客は、これから舞台で起こることに始めからそんなに興味を持っていない。そこを起点に劇を立ち上げなければいけないと僕は思う。 テキスト、演技、空間、すべてが観客に語りかけることに無自覚すぎる。観客の声を聞いていない(実際の声ではなく)。だから、僕はそれ以上興味を持って観ることができなかった。


吉田寮しばい部『きずあと』

学校の授業で画用紙に“透明”を描くことができず登校拒否になった少年と、幻の高級魚・ノドグロが捕れたというヤラセのTV収録を強要された漁師の青年。それぞれ自分が直面した嘘によって負わされた“傷”があり、その“傷”が二人を引き合わせることになる。都会から旅に出た少年と、過疎化した漁村で落ちぶれた青年との出会いという発想も、ありがちだが悪くはない。けれど、作品はそれ以上の発展をしなかったように思えた。最終的に僕にとってこの作品はロマンとノスタルジーでしかなかった。それはそれでひとつの落とし所ではあるけれど、なんだかとても肩すかしな印象だった。せっかくいろんな方向に発展する可能性を秘めた題材を選んでいるのだから、もっともっと膨らませて欲しかった。(これは演技レベルの問題かもしれないが)少年と青年の2人の内面が見えてこないことも問題だったと思う。主軸がもっと明確に「旅」に置かれていても良かったんじゃないだろうか。そうすれば、もしかすると壮大なロードムービー的作品になったかもしれない。



杉原邦生(すぎはら くにお)[演出家、舞台美術家/KUNIO主宰、木ノ下歌舞伎企画員]

1982年東京生まれ、神奈川県茅ケ崎育ち。特定の団体に縛られず、さまざまなユニット、プロジェクトでの演出活動を行っている。最近の主な演出作品に、2011年9・10月KUNIO09『エンジェルス・イン・アメリカ』(作:トニー・クシュナー)、2012年7月木ノ下歌舞伎『義経千本桜』、同年9月KUNIO10『更地』(作:太田省吾)など。また、こまばアゴラ劇場主催の舞台芸術フェスティバル<サミット>ディレクターに2008年より2年間就任、KYOTO EXPERIMENTフリンジ企画では2010年より3年間コンセプトを担当した。


京都学生演劇祭アーカイブ

京都学生演劇祭の、今までの出場団体の情報・審査員からの講評等をアーカイブしていきます。

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