講評:山口浩章 氏
総評
今回初めて京都学生演劇祭の審査員を務めさせてもらって、自分自身が学生劇団出身ということもあり大変興味深く観劇しました。初めてのことなので、前年や、過去の演劇祭作品との比較はできないのですが、全体の印象としては、主に美術的な視点や挑戦が少なかったように思いました。別に豪華な舞台セットというのでなく、シンプルな舞台美術や空間造形というなら良いのですが、なにか、手軽に済ませたという印象が強く、それは観客からの見え方、俳優同士の物理的な距離の取り方への配慮にもつながる物と思います。
空間や時間の設定は、作品世界を具体的に表現するのか、あるいはまったく抽象的な世界観として表現するのかの指針にもなりますし、言葉だけでない総合的な舞台芸術というジャンルにおいて重要な要素ですし、舞台上においては世界そのものと言ってもよいかもしれません。舞台装置はなくても、空間造形は出来るので、一考してもらえたらと思います。
とはいえ、学生演劇というある種の閉じられた世界だからこそできる挑戦や、その向こう側にある新しい表現を模索し続けていただければと思います。
劇団愉快犯
好きになった女の子の実家が忍者の家系だった話。作品紹介の文章から推理物の要素があるのかと思ったが、殆どなかったので残念。忍者という設定を活かしきれていないように感じました。たとえば、ショウザエモン登場のシーン、娘が彼氏を家に連れてきたときに、曲者と勘違いするなど、忍者としての情報収集、分析能力に問題があるように思えてしまうと、その後あかされる、「政府が情報漏えいを恐れて暗殺しようとしている」という設定にも説得力がなくなってしまうと思うので、逆に、娘は母にしか彼氏を連れて行くことを話していないのに、すでに彼氏の全てを知っているというような登場のほうが、忍者としての能力も発揮できるし、登場シーンとしてのインパクトも増すのではないかと思われます。
忍者パワーというものがどういうもので、どういう基準、状況で暴走するのかなど、世界観を構成する重要な要素を、具体的に設定した方が、その設定の中での遊びの幅も広がるように思います。
小道具についても同様で、刀は出すが、お茶碗は出さないなど、小道具を使用する、しないを判断する際、特に使用しない時に不便だからという以外の理由が必要だと思いました。
曲者さんのキャスティングはバッチリだと感じました。
劇団洗濯氣
パンフレットにあるような、訴えを起こした魔法少女が実際被害者なのか、計画的な嘘吐きジョーカーなのかというような要素がなく残念。
魔法が家電に使われているという説明は身振り手振りを使って派手に話すよりも、静かに説明した方が、法廷の堅苦しさと、話している内容のギャップが出て面白くなるように思います。
具体的な動きでない、大きなジェスチャーを多用すると、俳優の負担が大きいだけで、効果的でない無駄な動きが増え、いわゆる「芝居がかった」という印象しか出ないように思います。特に、今回のお芝居のように「法廷」という具体的な場所、シチュエーションが設定されている場合は、具体的な動きを伴った演技の方が効果的だと思います。
藤根を演じていた細川さんは声も強くエネルギーの大きな演技をしているのですが、それもずっとそのままだと、効果的でなく、ただ「騒がしい人」になってしまうので、静かな部分をもっと多くする方がメリハリが出ると思いました。
三人の人間関係のもつれで、藤根が恨みを持っているが、「本当は裁判官になりたかったのにお前が弁護士に向いているって言ったから、弁護士になってしまった」というのは、あまりにも八つ当たりの理由ではないかと思います。少し難しいかもしれませんが、この痴話げんかも法廷の裁判の中に織り込めて、裁判が少しずつ脱線していって、被害者も被告訴人も置いてけぼり、というストーリーができたら巧みに裁判を使って藤根が復讐するということになって、芝居の焦点が三人の痴話げんかになることにも納得となるかもしれません。
幻灯劇場
田舎町と少女の夢物語。
役柄と役者の距離が他の団体と全く違って、記号としての要素が強いため、一人が複数の役を演じることができ、個としてだけでなく、アンサンブルとしての表現で、リズムや、心理的シチュエーションを作っているのが印象的でした。
最初の長ゼリフの時の、後ろの3人の表情が「まだ何も演じていない白紙の状態」というのもこの演出の手法をあらかじめ観客に伝えるのに効果的だったと思います。
脚本の中の言葉も印象的な物が多々あり、惹きつけられます。
照明との関係で映像が見えないことが残念でした。
劇団二色
弟が兄を刺してしまう事件が起こり、時間軸が徐々にさかのぼっていって、実はは改心した兄が弟を守ろうとした結果起きてしまった事件だったことが分かるという構造だが、それまでのシーンでの演技が「弟憎し」が100%の狂人のような演技のため、最後の兄の本心に納得がいかない印象になってしまったと思います。
魔波が否露鬼の浮気を疑って、「殺す」となるのも、否露鬼に誤解だと言われて「やっぱり愛してる」となるのも急すぎて、これも狂人のようにしか見えなくなってしまう。強い感情ほど、それが発生した理由が納得いくものでないと、共感できない話になってしまいます。心理を扱う場合、観客が見て納得いく心の筋道を作る必要があり、疑問に思ったことは稽古場で話し合うなどしないと、脚本家、演出家の自分だけがわかる表現になってしまいがちです。
舞台上の役者の距離感が具体的でなく、「説得している間にナイフ蹴り飛ばせるやろ」というような疑問がわいてしまいます。それと、舞台上に座り込んだり寝転んだりする演技が多く、観客席から見えないことが多々ありました。観客の目線、空間の構造、広さなども考慮して作品を創れると良くなると思います。
劇団蒲団座
モテない男がアサとヨルに引っ掻き回される話。
男の心の中の存在か、天使や妖精のような存在か、アサとヨルが登場するが、例えば心の中の天使と悪魔のような役割分担がなく、少し話し方の丁寧さが違うという程度の違いしかないのが残念。アサやヨルが佐藤の体に入り込んだ時も、二人で同じ動きをするところは面白いが、一人になると、固有のしぐさやポーズが無くなってしまい、アサとヨルの差が無くなってしまう。
基本的にはモテない男の妄想というか、もんもんとした空想の中の話なのだが、佐藤を演じた鳥居君の熱演、顔芸が活きて、それが、最後に彼女との思い出を振り返る時「彼女の思い出の中に自分がいない」という時の切なさに繋がっていたと思います。
カルトジオ計画
悪酔いして気分が悪くなっても、吐いて次の日になれば忘れてまた繰り返してしまうように、彼女に吐き気を催す不満があっても、次の日になれば飲み込んで忘れてしまう。そうして吐き気を伴う日々が過ぎていくという話。
テーマになっていることは興味深いのですが、舞台上の様々な距離感に違和感を覚えてしまいました。たとえば女の子二人が話している時、都合の良い単語だけ聞こえるなど、観客の空間認識、舞台上の都合が齟齬をきたしていたり、初めて会った人間同士の関係性としての距離が一般的な感覚から逸脱していたりしたように思います。
医者の特異な個性、心音も、本編あるいは本筋とどのような関係があるのか結びつけることができず、単発の変な人、変な設定に留まってしまっていて残念でした。
劇団ACT
大学で都会へ出た者、田舎に残って就職した者、卒業後の進路が決まっている者とそうでない者、取り巻く状況や、その変化によって、かつての同級生も話がかみ合わなくなる。
しかもそれぞれ現状に満足しているわけではないので、その不満やいらいらが、状況の違う他者へ向かう。折り合いをつけられるほどまだ大人ではなく、現実を無視して夢を語れるほど幼くない年代の描写。
時間経過が、照明変化や場面転換によるのではなく、会話の煮詰まり具合で表現されているのが面白かったです。役者の演技もそれぞれ的確に心理を描写していたように感じました。
劇団紫
周囲にいる人たちの願いを勝手にかなえてしまう力を持つ王子がある日降ってきた。彼が好きになった羊の願いは「神様に会いたい」すなわち世界の崩壊だったという話。
メルヘンといえどもルールが必要で、脚本家・演出家は自分の決めたルールに従わなくてはいけません。王子様の意思に関わらず周囲の者の願いを叶えてしまうなら、エレノアや座長、三つ足らの願いはなぜ叶わないのか。世界の終わりの瞬間に「死にたくない」と願った人たちの願いはなぜ叶わないのかという理由が必要になります。
同じ瞬間に相反する願いが発生した場合、叶うのは、王子との距離がより近い方なのか?、願う気持ちがより強い方なのか?
なぜ、出てくる物は壊れてしまうのに、「物を直す」という願いは叶うのかなど、多くの疑問が発生してしまいます。
そうしたよく解らない状況の中で強い感情を表現するのは、役者にとってはとても大変で、出来るだけ心を閉ざして強い感情を無理矢理表現しなければならなくなってしまいますが、そうした演技は観客を遠ざけることの方が多いと思います。
作家は自分で作った世界に疑問を持つのが難しいことがあるので、稽古の中で、他の俳優やスタッフが疑問を投げかけ、作品を磨いていく作業が必要かと思います。
劇団未踏座
学生劇団あるあるのような、演者やこの演劇祭の観客に近い物語。
開演前の場面転換の時から演出されていて、それが本編へつながっている。開演から終演まででなく、観客の眼にふれる部分全てを作品としてとらえた演出。
学生劇団ならではのエピソードが多く盛り込まれていて、しかも、舞台上の世界と、現実に演劇祭が行われている時空感が直接的に接点を持っているため、この演劇祭の観客に対して多くの共感を呼んだと思います。
そうした観客との共感を主眼に置くとしたら、観客に対して直接語りかける演技の時には、観客席の上一点を見つめて話すよりも、実際の観客席に広く語りかける方が効果的だと思います。
ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。
傑作を生み出すというのは才能を持った人間が、狂ってしまうほどの情熱をもって作るというお芝居。ものを創作するということに対いて向き合おうという姿勢は好感が持てます。
自分は天才でないという自覚があり、しかも天才が分かってしまうという悲劇は、モーツアルトとサリエリなどでも扱われる悲劇の主要なテーマであるが、ゴッホに憧れる珠紀の描きたい絵が「ゴッホのような」絵なのか、あるいは「ゴッホのように自分の色、自分の線、自分の構図を探し続けた画家の」絵なのかという疑問が起こります。
もし前者であれば、出来の良い「ゴッホ風」の絵に留まってしまうし、後者であれば、自分で探求すべき道であるから、生贄のような正実は必要なくなってしまうように思われます。
また、そうした「自分の道」を他者の評価を気にせず探究する存在としてピエロが登場するのですが、そのピエロの芸や芸への取り組みが分からないので、共感しにくかったです。
それと、打ち込むとか、探究すること、狂ってしまうほどの情熱というようなものと、ヒステリックになることの表現の境界線が曖昧で、一時的に感情が昂っただけの心理的な事故のように見えてしまうシーンが多かったように思います。
劇団立命芸術劇場
演劇という枠組みや演技によって生み出される雰囲気を使って遊びにしてしまうという手法は大変面白かったです。
しかも今回の作品は、それほどハチャメチャなものではなく、最初の葬式のシーンからしっかり話が繋がっていたりして、きちんとまとまった作品になっていたと思います。
パンフレットのコメントや、話を聞いてみると、もともとは「ちゃんとした」芝居をしようとしていたり、普段はこんなことはしていないということでした。演劇界全体にもあることですが、学生劇団にはより強く、その劇団の価値観や、先輩たちの作ってきた良いとされる形式が出来てしまうのですが、そうした既成の形式を打ち破ることで、演劇は進化してきました。場合によっては退化になったとしても、また、不本意な状況から発生したにせよ、普段の価値観とは違うことをしてみるという挑戦は新しいものを生み出す契機になると思いますし、実際には商業化されていない学生劇団の方が、そういう新しいものを生み出す力を持っているのではないかと思います。
ヲサガリ
一人一人の役作りという以外にアンサンブルとしてのシーンもあって、様々な状況を表現するのにリアリズムの直接的でない表現も見られて面白かったです。
その日の出来事を思い出している、想いでの持ち主に吊皮を持たせるなど、この作品の中での表現のルールというものが明確で、解りやすかった。
トイレットペーパーのシーンのように物語や登場人物の心情を、言葉として伝えるだけでなく、絵として伝えていくという手法は大切な視点だと思います。
最初のダンスは少し長く感じました、乗客が座席に座った時点で終わった方が、音楽にもあっていて、テンポもよく、電車内であることの表現としても十分なので良いように思われます。
plofile
1973年生まれ。立命館大学在学中に山口吉右衛門の名で初舞台を踏む。卒業後劇団飛び道具旗揚げに参加。俳優、演出、脚本執筆などを行う。2005年より演出家としての活動を専門にし、2007年『このしたやみ』を結成。2009年より大阪大学大学院にて演劇学を専攻、2010年修士号を取得、2011年の利賀演劇人コンクールにて優秀賞を受賞、2013年よりロシア、サンクトペテルブルク国立舞台芸術アカデミーのマギーストラトゥーラの一期生として留学、2015年学位を取得し帰国。俳優の身体と劇の構造に深く関係する空間造形により、言葉に出来ない関係性や感覚を具体化する手法で、その作品は国内外で高く評価されている。
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