講評:橋本裕介 氏
総評
私が観劇する際に常に意識していることは、「何を見せたい表現」かということよりも、むしろ「誰に見せたい表現」かということである。それは、表現者がどのような場所に立脚して、世界とどのように距離をとっているかに関わっているからであり、私はほとんどそこにしか興味が無い。しかも、他者に向けて開かれた表現かどうかが私にとって重要であり、それが「足場の失った表現」、つまり自らの依って立つ根拠を疑った表現として立ち現れているものを評価したいと考えている。
今回学生演劇祭ということで、もう一つ意識したこととしては、「本当に自由な表現とは何なのか」ということだ。それは演劇という表現形態の物理的な不自由さ、制約を知ったところからしか、本質的に自由な表現は始まらないはずだからだ。作者自身が想像しているだけではダメで、現実として限られた空間と時間の中で展開される舞台で、観客の想像力を引き出して成立させるのが演劇である。具体的なポイントでは、暗転を多用するのは最も安易な演出で、それは映像表現の手法であり、演劇の本質を捉えていないと判断した。また、出演者が全て人生経験の少ない学生であるということをどれだけ自覚し、それを踏まえて虚構の世界の住人に化けさせる術を検討したかが評価のポイントだった。
個人賞=森脇康貴(劇団西一風)
A-1 第三劇場
まず些細なことだが、上演の始め方が良かった。作品の内容がフィクショナルなものであるからこそ、暗転と同時に劇世界が唐突に始まるような方法を採らなかったことは正解だと考える。観客は油断して舞台を見始め、いつの間にかその世界に誘われるという、物語の展開に観客の意識をコントロールすることが出来るからである。また俳優の演技のアンサンブルの妙を生かして、舞台セットの無い中で、空間的な展開を多彩に見せてくれた。
A-2 劇団トポス
脚本の段階で対話というものがしっかりと書けていないことが課題だった。近代以降の演劇における対話とは、互いに共通の理解を持たないもの同士が、価値観や情報を交換し、そこから登場人物や状況に変化をもたらすものと言って良い。それが物語を駆動させ、観客の関心をつなぎとめ発見や感動をもたらすのだ。ストーリー(筋)があるというだけでは演劇として、観客の脳内に虚構の世界を立ち上げることは出来ない。
A-3 劇団西一風
様々な演出的技法を駆使し、俳優個々のレベルも高く、作品として充実していた。恋愛や性欲といった自意識に関わる主題を、俳優の自意識を感じさせない敢えて振り切った過剰な表現によって、巧みに抽象化されたエンターテインメントとして昇華させていた。演出的技法そのものは、過去日本の小劇場演劇で試みられた諸要素ではあるが、基本的には俳優の演技のみで重層的な次元を表現していたのは、演劇ならではの特色を捉えたもので、重要な試みだと思えた。
B-1 劇団愉快犯
ある種のコントとして成立するセリフの組み立ての巧みさがあった。一方でその脚本の枠組みが既視感があるため、独自の世界を表現するには、言葉の一つ一つを研ぎすまし、もっと自身のセンスを形にしていく作業が必要だと感じた。また、物語の展開に応じて登場人物たちの関係性が変化していくわけだが、それが演技として結実する演出が十分になされていると言い難かった。
B-2 ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。
極めて私的な視点から描かれた戯曲で、閉じられた世界の物語であるが故に、偏執的な世界観が立ち上がり、異彩を放っていた。むしろ私が純粋に疑問に思ったのは、このテクストを演劇という集団表現として成り立たせる際のプロセスである。どのように俳優たちと劇世界を共有したのか、それを知りたいと思った。
B-3 劇団月光斜TeamBKC
どういった動機でこういった物語を作ったのか不思議でもあり、だからこそとても興味深かった。薄気味悪い世界観 —決してリアルではあり得ない― をよく最後まで持ち堪えさせたと感心した。具体的には暗転を使わずに、俳優の演技だけで物語世界を展開させ、核心に迫るアプローチを成立させた演出の技術は力があると感じた。
C-1 劇団ACT
自身の環境、生活実感に基づいた物語はリアリティがあり、かつ舞台表現(観客と同じ空間・時間を共有する表現)としての機能をうまく活かした脚本は秀逸だった。一方でその脚本のレベルを実現させるための俳優の演技には課題が残る。内面の表現ではない技術、空間や時間の質をコントロールする極めて具体的な技術が求められる脚本だったのではないだろうか。この演劇祭の制約として上演時間が限られていたこともあり、それぞれのシーンの空気が立ち上がってくる前に、シーンが細切れに続いてしまい、かえって単調になってしまったことが悔やまれる。
C-2 劇団S.F.P.
3人という限られた登場人物であったが、それらが描き分けられていなかったため、対話が成立していたとは言い難かった。つまりそれは、物語を駆動させていくために必要な情報や動機といったものを脚本を書く上で見つけられていなかったのではないだろうか。それを観客の立場から言えば、目の前で喋っていること以上に、登場人物や物語の背景に関する想像力を喚起させられなかったと言える。いわゆるマンガ的な(リアリズムではない)設定だからこそ、日常のルールから逸脱させて観客のイマジネーションを掻き立てて欲しかった。
C-3 ウトイペンコ
独特の世界観とそれを体現する俳優の演技が確かにそこにあった。とは言え、世界観というのは大げさで、まだまだ「好み」のレベルであろう。それが世界観といって良いレベルに引き上げるには、観客を物語の側に引き込む手続きが具体的なテクニックを伴って用いられることだろう。別の言い方をすれば、自身の世界観に対する客観性であり、それを冷静に見つめることで客席との距離を推し量り、それを埋めていく手続きが自然と立ち上がってくるはずだ。それが出来たとき、単なる「好み」に回収されない世界観として説得力を持つだろう。
D-1 劇団立命芸術劇場
描きたいテーマは理解出来るが、本当にこの設定(モデルとキャバ嬢)でリアリズムのスタイルで劇を進行出来るという勝算があったのだろうか?純粋な対話で物語を描こうとするのであれば、設定に対する詳細なリサーチが必要で、それがセリフにも衣装にも現れていなかった。映画やテレビドラマのイメージを踏襲しても、空間と時間(そして予算)が限られた舞台上演では、それらの劣化したコピーにならざるを得ないのではないだろうか。
D-2 コントユニット左京区ダバダバ
「刑事コロンボ」や「猿の惑星」といった物語の定型として諒解されているものをフレームとして引用し、物語の結末を意図的に明示しながら、それとの距離感を明確に設定することは、「プロセスを遊ぶ」という演劇の核心を掴んだ作品だった。また、その距離感は俳優の力量(の無さ)への意識にも現れており、それを巧みに扱い、コントロールを超えたところにある狂気が垣間見える演出が加えられており、コントとしての面白さも担保していた。
D-3 ルサンチカ
演劇の虚構性を脱構築する試みは目新しいものではないが、時代を超えて行われてきたことであり、そこに問題意識を持つことは重要だと考える。それは我々人間が、常に現実と非現実の間の距離を推し量りながら生きている存在だからだ。こうした試みを行う上で重要なことは、虚構としての強度をどれだけ提示出来るかということが第一歩である。制約のある中で虚構の空間を生み出そうとする技術は確かなものがあったが、俳優の演技には虚構を超えた狂気がこの作品には求められたのではないだろうか。
E-1 ヲサガリ
大学生が小学生を演じるという設定に、何かしらのカリカチュアがあるのではないかと思いながら観たが、確信として何かを掴むことが出来なかった。出演していた二人は俳優としての表現力を持っていて、演じている中身は明確だった。しかし、少年時代の憧憬をこのようにストレートに描くことで、観客と一体何を共有したかったのか、対話したかったのか理解出来ないままだった。
E-2 スーパーマツモト
難しさや考えることは一切ないと銘打っているが、その面白さの要素が吉本新喜劇や寅さんのエピゴーネンでしかないとすると、観客は本家を観れば良いということになってしまう。ある種の“俳優らしさ”をまとった出演者たちの演技は安心して観ることの出来るものだったが、俳優の演技も本来はその内容が要請するものだから、物語の内容に独自性がなければ演技も“らしさ”を超えることがないのではないだろうか。
E-3 劇団蒲団座
うまくすると「世にも奇妙な物語」的な、シュールで薄気味悪い世界が立ち上がってくるのではないかと想像した。捉え方によっては非常に強い性的な含意があり、俳優の年齢や技量がそこに追いついてくると、もしかすると演劇作品として化けるのではないかとポテンシャルを感じた。
プロフィール
橋本裕介(はしもとゆうすけ)
京都大学在学中の1997年より演劇活動を開始。03年橋本制作事務所設立。現代演劇、コンテンポラリーダンスのカンパニー制作業務や、京都芸術センター事業「演劇計画」などの企画・制作を手がける。10年よりKYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)を企画、プログラムディレクターを務める。13年2月より舞台芸術制作者オープンネットワーク (ON-PAM) 理事長。14年1月よりロームシアター京都開設準備室プログラムディレクター。
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