講評:市川明氏
総評
1か月ぶりにベルリンから帰ってきた。京都学生演劇祭の審査員を務めるために。演劇祭はもう始まっており、ぎりぎり9月4日と5日に観劇できた。それにしても暑い。観劇中も汗が止まらなかった。会場は京都大学吉田寮食堂。初日は寮の裏側から入り、細くて長い廊下を抜けて、食堂に行った。何一つ変わっていないことに懐かしさを覚えたが、一貫して寮の建て替えを拒んできた政府に対する怒りも増した。こうした歴史をかみしめながら、会場として寮食堂を提供してくれたことにまず感謝しなければいけないと思う。
京都学生演劇祭は演劇祭と呼ぶにふさわしいイベントだ。演劇祭と呼ばれるものの中には便宜上そう呼んでいるだけで、理念があいまいだったり、相互交流が行われていないものもある。だがこの演劇祭は違う。それぞれがほかの劇団の上演から多くを学び、前進していこうという野心(ドイツ語ではいい意味)に満ち溢れている。ほかの人の歌は聞かず、マイクを持ったら離さない的な「カラオケボックスの君」はここにはいないのだ。歌や寄席、古本、屋台などがもっと多く集まってくれば、いっそう楽しいものになるだろう。
14劇団の公演を二日間で一気に見るというハードスケジュールだったが、すべての劇団が一定のハードルをクリアしており、「これはひどい」という劇団は一劇団もなかった。ブロック別に言うとDが3劇団ともレベルが高く、いちばんおもしろかった。学生劇団なので、「どのように新しいものを目指しているか」という点に、興味があった。しかし「前衛的で、とがった演劇」という予想は崩れた。劇場の構造上、さまざまな制約があるにせよ、演出面ではもっと強烈で、新たな解釈を呼ぶようなものがあってもいいと思った。
僕は絶叫する芝居、センチメンタルな芝居は嫌いだ。あまりにも感情をこめて涙ながらの演技をされると、俳優に「そのセリフの後に『と○○(役名)は言いました』と付け加えろ」と言っているぐらいだから。暗転の多い芝居や照明の暗い舞台も嫌いだ。イリュージョンは必要なく、今では明るいところで堂々と舞台転換をしているのだから。テンポの遅い芝居はもちろんごめんだし、作者が書きすぎて、観客が色を塗るスペースがないような芝居も面白くない。でもこういう芝居が意外と多いのにも少しびっくりした。
さて全上演を、台本、演出、俳優、舞台美術、照明・音楽などから総合的に評価してみた。そのうえで演劇の新しい可能性を求め、新たな価値を発信している、四つの作品を選んだ。『破壊的なブルー』『45分間』『炬燵』『ピントフズ』の四つだ。『破壊的なブルー』は僕が演劇の実践で目指しているものと極めて近く、心震えた。だが「言葉への回帰」という点で、最後は折り合えなかった。『炬燵』は荒削りで、未完成だが魅力的。ただまだたくさんの埋めなければならない隙間があり、今回は見送った。『ピントフズ』は誰がこんな台本を書いたのだろうと、びっくりさせられる。だけどこてこての芝居、ドイツ表現主義の絵のような演劇が好きな僕には、やはり静かなリアリズムは性に合わなかった。『45分間』はほかの上演には欠けている今日性や現代性をいちばん強く感じさせた。演劇に対する熱意や誠実さがもろ伝わってくる上演で、特に二人の俳優のからみはすばらしいと感じた。一般受けしないこともわかっていたし、空回りしている部分があることも見えていたが、最終的にこの作品を審査員賞に推した。
参加者のみなさん、創造の場に戻って、新たな実験に挑んでほしい。
A-1 劇団未踏座『懐かしき家』
一人の女性と二人の男性の芝居。舞台は女性の家。出会いや遊ぶ場所は路上や広場であっても、思いを交差させ、心が溶け合うのは家。そこに「懐かしい」と言う感情が生まれるのだろう。教員採用試験に受かり、すでに教員免状を持つ女。受験準備で参考書を抱える若い男を見かけ、声をかけたのが知り合うきっかけ。男は女の家に通い、アドヴァイスを受けながら勉強に励む。そこへ警察に追われたレイプマンが入り込む。トライアングルと逆三角形のトライアングルがいわば8の字形に置かれている、そんなドラマの世界だ。その中心にいるのは女性で、幼き頃の思い出に戻っていく。忘れられていた関係が浮かび上がる。ここが芝居の転調部分なのだが、ちょっとセリフに頼りすぎかな? 装置ももっとアブストラクトで何もない空間、俳優も裸足のほうがいい。ただ二階で休む女性はもっと立体感を出して、高い脚立に腰かけるとか…工夫が必要。
A-2 劇団なかゆび『45分間』
二人芝居ほど面白いものはないし、難しいものもない。そんな二人芝居の魅力に迫った上演だ。「この二人を愛さないでください」という玉音放送がまず流れる。軽いコミカルな出だしは世界に対する反逆、人間に対する挑発でもある。ブランコのように揺れ動く装置が時間を刻んでいく。逃亡中の二人のテロリストが獄房のような閉ざされた空間で語り合う。作者がこの作品を学びの劇(教育劇)にしようとしていることはよくわかる。異端者や難民といったマイノリティの問題や、彼らにとって神とは何かが鋭く解き明かされるからだ。太鼓のリズムで東アジアの小国が浮かび上がり、セリフのアーティキュレーションを変えることで人間疎外を表そうとするなど、芝居をよく知る集団の意欲的な試みだ。ただ決定的なインパクトをどこで生み出すかという点では物足りない。理屈がやや勝ちすぎて観客にフレンドリーではないのだ。玄人受けのする芝居だと言える。
B-1 雪のビ熱『きかざって女子!』
若い女性の多くが何か月かに一度は女子会をしている昨今、興味ある中身を覗かせていただいた。合評会で「僕なんかどんな立派な講義をしても話題に上らないことがよくわかった」というと笑いが起きた。舞台は高校で同級だった三人が集まる女子会。いつものように家に集まる。田山花袋の『蒲団』が話題になり、僕には通奏低音のように芝居全体を流れ続けた。彼女たちはこの作品と同じく「すさまじい暴風(あらし)」のような恋愛を追い求めているのだろうか? 自然主義の文学のようにありのままの赤裸々な告白がなされるのだろうか? たしかに楽しい演劇でメリハリもある。だがデート、割り勘、男の年収、旅行などの話題はほぼ想定内のものだ。ポール・マッカートニーも出てきているのだから、ガーンとステレオをつけて踊りまくるとか、一緒にポルノ映画を見るとか、芝居に音や映像をもう少し絡ませたらどうだろう。俳優が力演しているだけに惜しまれる。
B-2 劇団月光斜『メルシー僕』
「物事の本質は深く、遠くにある」。その本質を突き止め、言葉の世界に移し替えること、小説家になることを息子は真剣に追求する。社会で働き、生き続けているのに書けない苦しみや焦り。息子は小説家になることがそんなに甘くはないことを実感する。そしてその向こうにこうした息子の苦悩を見つめる母親の眼差しがある。母と息子のドラマだが、女3+男3のドラマになっている。少しわかりにくい面もあるのだが、僕には、それぞれの行動や心理の可能性をパターン化し、分身として表しているように思えた。この作品のモダニズムは、大きな可能性を期待させるが、まだ十分には表現されてはいない。クラシック音楽とダンスの組み合わせ、分身たちの対角線の交差など、美をもう少しシャープに表すことができれば、母親殺しという身振り的な終末が余韻を残して観客の脳裏に焼き付いたことだろう。
B-3 劇団べれゑ『炬燵』
紗幕が張られ、その向こうでスモークがたかれ、舞台が手動で回る。映像も映し出される。ほかの舞台にはない仕掛けに思わず引き込まれる。それだけではない、なんと中央に吉田寮から持ってきたような古い炬燵が置かれている。人間に「怠惰」「色欲」「嫉妬」「酩酊や暴食」など「七つの大罪」を起こさせる「人為的堕落装置」として。こうしてみると炬燵がもうこの芝居の主人公だ。『罪と罰』のような不条理な殺しが行われたかと思うと、『マクベス』の三人の魔女が誘導する神によって最後の審判が始まる。交錯する二つの平面が僕たちを夢幻の世界へ誘う。それにしても中央にいる(おそらく神)、大柄な女性の存在感は何だろう?! 炬燵が回転する間の空白の時間が心地よい。書きすぎ、しゃべりすぎの上演が多い中で、芝居の別の可能性を見せている。だが劇場の構造の関係で炬燵がちゃんと見えなかった。小劇場の傾斜のある客席で、見下ろすように芝居を観たかった。
C-1 劇団西一風『ピントフズ』
しゃれた芝居だ。平田オリザの静かな演劇を思わせる。ある小さな工場。四人の労働者が仕事着を着てコンベアのところで仕事をしている。奥の机には工場長。コンベアから流れてくる小さな段ボール箱にピントフと呼ばれる霧吹きで霧を吹きかけている。新米の労働者はピントフの使い方を教わる。ウェスカーの『調理場』や韓国の『ナンタ』も労働現場を扱った舞台だが、コックの身体パフォーマンスで大いに沸く。だがここでは霧吹きを押すという単純作業。ただそれだけの芝居の流れなのに観客席から笑いが起きる。静かなリアリズムがそこにはあるのだ。特に工場長をやった男性と松本を演じた女性は、「わかるー」と思わず感心するほどのリアルさがあった。コンベアからはピントフが流れてきたりする。ピントフ流しというイベントが話題になるが、精霊流しや、タイムカプセル、難破船から瓶に詰めて海中に投ずる通信など、様々なことが浮かんだ。
C-2 遊自由不断、『花満たし』
三人の若者を巡る劇。二人の男が一人の女を争う。こんな場合、勝敗予想をしてしまう。Aはまじめな優等生。言葉の端々に(冷たい)理性がうかがえる。標準語をしゃべる。Bは大学受験の敗者で、崩れた感じ。女の幼なじみで関西弁をしゃべる。パターン化された人物像だ。女は心に傷を持っており、精神障害を克服しようと心を砕いている。二人は女が笑顔を取り戻すように会話を続ける。様々な思い、心理的葛藤は映像に映し出される。言葉の洪水ともいうべき文字化されたテクストは非常に効果的だが、暗転が多いのが欠点。技術的な改良が必要だろう。女の心理を表す透明なプラスチックボックスの「花満たし」は×。予想通りAが「勝利」するが、思わぬ結末が。これはAとBのナンパゲームだったのだ。Aが「3勝2敗か。落とした相手には興味がない」、Bが「ごめんね」と言って幕を閉じる。この異化的な結末はグロテスク(戦慄+滑稽)で、大いに考えさせられる。
C-3 ソリューションにQ『ハムスターの逆襲2106』
2106年という近未来を扱った演劇。明と暗の部分が合わせ鏡のように存在し、観客の心に笑いと深刻さの合わせ鏡を作り出していく。スランプに陥った作家が台本(小説)を編集者に見せるところから始まる。作家は袋小路を抜け、作品中のSFの世界に入り込んで、作品の登場人物とともに作品を動かしていく。大学で学ぶ者にとって「科学の社会的責任」は大きなテーマであり続けたが、ここではハムスターの侵略を受けた人類が作家=主人公の科学の力によって人類存亡の危機を切り抜けてゆく。ハムスターの逆襲に逢い、窮地に陥った科学者は自ら発明したIQ爆弾の投下を決断する。だがそれは発明者をはじめ高いIQを持つ人の死=犠牲をもたらす。「強者の繁栄」という鉄則はアイロニカルに覆される。ドキドキするような展開だが、シアトリカルには音や光でもっとメリハリがつけられるはずだ。主人公をはじめ俳優が好演だっただけに惜しまれる。
D-1 劇団速度『破壊的なブルー』
いつ始まったかもわからない舞台。男が舞台にブルーのシートを敷く。その上にはさまざまなものが散乱している。三人の放浪者。奥の赤い毛布をかぶった人が女性だということは終盤でわかった。映像が映し出され、ト書きの文字が浮かび上がり、転換していく。列車の轟音が響き、高架下の三人がそれを見上げる。歌を歌ったり、笑ったりはするが三人とも無言で、それは最後まで貫かれる。ベケットの黙劇を見るようだが、同じ場面が少しずつヴァリエーションを加えて、四度演じられる。俳優のリズム感あふれる動きはそれだけで十分なパフォーマンスだ。三人は境界線を持たない遊牧民のような存在のはずなのに、やがてそこから抜けられず、日常性に埋没していく。釜ヶ崎の日雇い労働者・浮浪者を思い浮かべた。阪堺線、南海線、JR線の三つの線に囲まれたこの地域で彼らも毎日、高架下で轟音を聞き、列車でここを抜け出すことを夢見ているからだ。荒木一郎のような男(と言っても、今は誰もわからないのでグーグッてほしい。いわゆるアングラの親玉のような人)が、狂言回しのような役で出てくる。下手前の大きな水槽に水を入れ、世話をしているが、最後にすべてのものにシートをかぶせて去っていく。劇場が場を作り、芝居がその場を厚く=熱くしていく。そんな芝居で久しぶりにパトスが湧いた。だが最後まで言葉は否定されたままで、やはり最後は言葉に戻ってほしかった。
D-2 幻灯劇場『虎と娘』
人と虎の子であるというヒトトラ。上半身と下半身がそれぞれ虎であるという二人(二匹)が、明日の先生、作家を夢見る女性アノネと繰り広げる数千キロのイメージトリップである。舞台は奥の板が一枚はずしてあり、(今回の演劇祭では唯一)閉ざされた空間と、そこに広がるパノラマの弁証法が感じ取られる。「夜の地下鉄」「差別された動物」「そこに広がる草原」などの言葉の連鎖は、新たなメッセージを読み取るきっかけを与えているようにも思える。ヒトトラはヒトラーとも聞こえるし、「平和のための戦争」のようなセリフからも単なる言葉遊びではない、「生きる」というテーマが隠されていると思われるからだ。ただそうしたことから離れても、この芝居は文句なしに楽しい。ヒトトラを演じる二人の男優の演劇力は群を抜いていたし、言葉のテンポや軽快な身体が発する身振り的な表現は十分に観客を楽しませてくれたからだ。
D-3 劇団紫『木のせい』
医者とユリカの話で芝居は始まる。病院には難病のカスミが入院している。幼なじみのそう太が訪ねてきて、三人はさまざまな思い出話を語り合う。この芝居には別に主人公がいる。土手でじっとみんなの成長や生活を見守ってきた一本の木である。木(木の精)を擬人化して一人の女性に演じさせたことがこの芝居の見せ所となっている。「木の精」は木から抜け出し、人間世界に現れ語りかける。この場面は木の精を演じる小柄な女性の奮闘や、さまざまな仕掛けでけっこう楽しいものとなっている。ただ結末は少し強引だ。「どうなるかわからない未来を恐れている」カスミは未来と向き合うことを避け、思い出だけにすがろうとする。その思い出の象徴が木である。木も自分がいればカスミは強く生きていけないと感じ、斧を渡して木を切るところで芝居は終わっている。ここはリアルに演じては駄目なように思う。この結末の処理の仕方や演技法はやはり納得がいかなかった。
E-1 青月ごっこ『お悩み、遅っくおん!』
「遅っくおん」が「チックオン」と読むのだということは、芝居が始まってわかった。教育大学で学び、先生になるような人は多分学校でこんな生徒を相手にして、奮闘しているのだなと思った。朝起きられないアサヒ。時間にルーズで寝坊。デジタル時計は読めても針時計は苦手。小中高、大学…とその様子に変化はない。マイクでなされる解説で、状況は次第にクリアになる。三人芝居だが、アサヒの前に現れるヨドが重要な役割を果たす。ヨドはアサヒにしか見えないいわば分身なのだが、会話の中でアサヒもヨドも発達障害を背負っていることがわかる。ヨドを演じた女性は大柄で演技力もあるので、アサヒに覆いかぶさったり、背中合わせになったり、足元に転がったり、もっと自由に動けば、面白味は一層増しただろう。暗転が多すぎるし、絶叫するせりふもその必要性が感じられなかった。ストーリーもキャラクターも掘り下げ方がまだ足りないと思う。
E-2 劇団月光斜TeamBKC『Sensibility』
最初に音合わせがあり、芝居はもう始まっている。何となく題名を予感させる出だし。五人の登場人物(男3+1、女)が繰り広げる密室劇。「いらだつな」と男がみなをなだめ、名前を聞いていく。会話が次第に成立する。ひょっとすると雨の日の夜のガレージかもしれない。「ここで夜を明かすと」「みな仲よく借金しているが」「たいそうなお金が転がり込んでくる」と四人は思っている。やがて五人目の男、高野が語り始める。…黒いリムジンや青いセダン…芝居を構成する表象的な世界は次第に浮かび上がってくるのだが、どこか全体にぼやけている。密室劇に不可欠な緊密性にどこか欠けている。台本のせいなのか、意味のない俳優の動きが精度を弱めているのか、もう一品料理(仕掛け)が必要なのか、最後まであいまいなまま終わってしまった。せりふのかみ合わせ、演技のトーンなどを検討し直して、もう一度挑戦してほしい。
E-3 スーパーマツモト2『泣けるモラル』
「知識をひけらかす」舞台だ。ポジティヴな意味でそう言っている。学生演劇はそれぐらいの生意気さがあっていい。知性を笑いのオブラートで包むやつは多くいるが、笑いを知性のオブラートで包むやつはそうはいない。そんな知性と笑いの競演(饗宴)を見させてもらった。願わくばこの猥雑な芝居で、俳優の足の表情を見たかった。劇場の構造の関係で下半身はほとんど見えないのが残念。職場の朝の集会。パート職員を含めたラジオ体操。手話や群読形式も飛び出し、夜のくるみ割り人形のように、みな演じ始める。チェーホフ、芥川、太宰、宮沢に聖書…大日本帝国の朝鮮侵略など戦後70年の歴史を振り返る出来事も登場する。磔刑の場面を演じたイエス役の男性はすぐにキャスティングしたいような逸材だ。引用に頼りすぎの感があるし、出されてくる料理はごった煮だが、妙にインパクトがある。「モラルがないこと自体がモラル」だと絶叫する。これぞ泣けるモラル!
【プロフィール】
1948年生。大阪大学名誉教授。1988年大阪外国語大学外国語学部助教授。1996年同大学教授。2007-2013年大阪大学文学研究科教授。
専門はドイツ文学・演劇。ブレヒト、ハイナー・ミュラーを中心にドイツ現代演劇を研究。近著にVerfremdungen(共著Rombach Verlag, 2013年)、『ワーグナーを旅する──革命と陶酔の彼方へ』(編著、松本工房、2013年)など。近訳に『デュレンマット戯曲集 第2巻、第3巻』(鳥影社、2013年、2015年)など。関西の演劇に新風を吹き込もうと、多くのドイツ演劇を翻訳し、ドラマトゥルクとしてサポートしている。10月にはブレヒトの『アルトゥロ・ウイ』を上演予定である。
【事前メッセージ】
祭だ、みんな集まろう!
市川 明
僕は祭が好きだ。あの猥雑でエネルギーあふれるカーニバルの空間に血が踊る。松本雄吉さんの維新派の上演にもこうした雰囲気があった。祭と名のつくものは何でも好きで、演劇祭は国内外を問わず、たくさん参加している。だから今回の京都学生演劇祭もわくわくする。京都の学生劇団が一堂に会して若い力をぶつけるのだから。どんな新しい作品や解釈が飛び出すのやら? 演劇の「いま」と「ここ」が空間でスパークするのを大いに楽しみたい。トイ!トイ!トイ!
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