講評:森山直人氏

総評

この演劇祭の審査員は今回が2回目ですが、全体的な印象でいうと、今年のほうがレベルが上がっていたように思います。私は14団体のうち、12団体を初回の公演で見ていますが(例外はAブロック)、そのことがとりたてて気になるということはありませんでした。

今年の演劇祭の良さは、以下の点にあったと思います。

① 作品に多様性があり、かつそれぞれが一定の志をもって、作品制作に取り組んでいたように思えたこと。

② 学生演劇祭の役割や意味について、学生演劇実行委員会が、なんらかの理念やヴィジョンを提示しようとしていたこと。

第一の点について、客席では「異種格闘技」という言葉が飛び交っていたようですが、私もまったく同じことを感じていました。(詳しくは、この後の団体別の講評を参照してください)。第二の点については、当日パンフレットの「中間報告」が、その努力の跡を物語っています。

私自身は、「学生演劇祭」は、「学生演劇」もしくは「演劇」という存在にとって、絶対に必要不可欠なものだとは思っていません。いまさら高校演劇のコンクールでもないのですから、学生として、自分の本当にやりたいことを、やりたい場所で、やりたいようにやれる自主公演こそが、本来的には最も重要な場でしょう。にもかかわらず、自主公演だけを行っていることによるデメリットもまた存在するのではないか。客席の大多数が「知り合い」だけで占められがちな自主公演の繰り返しだけでは、「他者としての観客」に出会う可能性を気づかないうちに狭めてしまう危険性もあるわけです。その点、なかば強制的に同じ空間と同じ制限時間を共有し、同じ土俵で同じ観客の目にさらされるという「学生演劇祭」の場は、そうした閉塞を破るための、恰好の装置でありうる。この点についても、今年の実行委員会は、ある程度自覚的だったのではないかと感じられました。

ただ、その上で、もう一度、すべての作品を振り返ったとき、ある種の物足りなさを感じたことも事実です。閉会式でも申し上げましたが、あえていえば、その物足りなさは、驚きの不足、と言い換えることも可能です。たとえば、ナンセンスならナンセンス、密室劇なら密室劇、実験演劇なら実験演劇・・・といった具体に、今年の参加団体の作品には多くのジャンルが混在しており、その点が今年に特有の魅力を形作っていたこともたしかなのですが、見終わった後、どの作品も、どこかで見たことがある、という感触をぬぐえなかった作品が、ほとんどであったと思います。別の言葉でいえば、それぞれのジャンルに何かお手本のようなものでもあって、そのお手本に沿って進んでいくことだけを見て作品を創っている、という印象が、かなりの作品から感じられたということ。――急いで付け加えると、お手本に沿って進むこと自体が悪いわけではありません。問題は、お手本だけしか見えなくなってしまうことです。厳しい言葉でいえば、それは作品制作のマニュアル主義、ということに終わってしまいます。そして、マニュアルを越える何かが少しでもかいま見えたとき、そこから本当の意味での「作品」が、観客の想像力のなかで誕生することになるのだと思います。ひとえにその意味で、私自身が最も魅力を感じたのは、完成度という点では荒削りというしかない『炬燵』と『泣けるモラル』であったことは、これも閉会式で申し上げた通りです。技術的な向上は重要ですが、技術だけでは、最後は(エンターテイメントも含めて)「芸術」にはなってくれない。かといって、難解な用語を振り回しているだけではどうにもなりませんが、最後は「志」が伝わるのが「劇場」なのです。


A-1 劇団未踏座『懐かしき家』

一人暮らしの主人公ショウコの家で、教員採用試験の勉強に励むエンドウ。ある日そこに、指名手配中のレイプ魔サイトウが押し入るが、なぜか三人は奇妙な共同生活を始める。やがてそのことが、実は三人の子供時代の記憶や、淡い三角関係に由来していたことが明らかになる、という物語。つまりは「日常性」に一種の「幻想」がいつのまにか混入しているところにこの作品の見せ場があるのだが、「レイプ魔」がなぜすぐに大人しくショウコに従順になってしまうのか、「指名手配犯」がなぜ捜査の手を逃れて同居生活を続けることができるのか、などといった点について、観客を上手に説得できていないことが、物語全体に、やや強引な印象を与えてしまう。こうした要素は、逆に、彼ら三人の「日常」からの孤立感を浮き彫りにし、物語の行間で「幻想小説」のような効果を発揮する可能性もあっただけに、残念である。

A-2 劇団なかゆび『45分間』

きわめてユニークな2人芝居である。「この二人を決して愛さないでください」というナレーション(「玉音放送」を自称する)に続いて、逃亡中の二人のテロリストが、密室のなかで特異な世界観を戦わせ、まくしたてる。二人が名乗る「ムハンマド」という名前や「アッラー」への言及などからも、明らかにISのような現代のテロが意識されていることがうかがえるが、リアリズムではなく、むしろ「テロの形而上学」に主眼が置かれたこの種のドラマが、とかく「政治」を遠ざけがちな日本の現代演劇において、もっと描かれてよい重要なテーマであることに疑いはない。興味深い台詞も随所に見られるのだが、惜しむらくは、俳優の技術的な問題で、かなりの量の台詞が聞き取りにくいままに終わってしまったことは残念である。他の審査員とは逆の意見になるが、私はここで発せられた言葉を、もっと聞きたいと思ったのである。戯曲が面白かっただけに惜しまれる。

B-1 雪のビ熱『きかざって女子!』

学生にとっての「高校時代」は、一種の近過去であり、最も手の届きやすい題材かもしれない。三人の俳優が演じるほぼ等身大の「女子会」には、そういう意味でのリアリティが備わっている。「プロローグ」「本編」「エピローグ」というきっちりした展開を持ち、「現在」と「回想」がテンポよく切り替わっていく構成はよくはまっているし、深夜の学園モノの30分アニメを見ているようなリズム感があり、よく出来ている。ただし、その分、途中から、だいたい着地点が予測できてしまう感は否めず、驚きは感じなかった。俳優は三人とも熱演しているが、声が割れやすい点が、技術的な問題としては残る。

B-2 劇団月光斜『メルシー僕』

一心腐乱に小説家をめざしている息子と、息子の将来を案じる母親との激しい葛藤がテーマ。それぞれに2人ずつ、「内面の声」を演じる俳優が付き添い、相反する思いや声にならない声を代弁するのだが、メインとなる息子と母親の演技には、次第にモダンダンス的な激しさが増幅されていく。クラシック音楽をふんだんに使い、壮絶な母殺しを演じるクライマックスには、一種の劇画的な誇張を感じた。俳優相互のアンサンブルは非常に統制がとれている。クライマックスは、キャラクターにとっての一種の自滅で、いわば泣き崩れるために泣き崩れているような印象も受ける。そのことが本来あるべきリアリティを平板化してしまっているのか、それとも、それこそが「現代」のリアリティなのかは、微妙である。

B-3 劇団べれゑ『炬燵』

この芝居は、いわば「炬燵」という存在自体が主人公であり、すでにその点で、野心的な作劇である。「人為的堕落装置」とパラフレーズされる「炬燵」の周りで、人々が次々に怠惰にかまけ、死人まで出ていく様が、ファンタジックな裁判シーンと交錯しながら展開されていく。ゴダールの傑作SF映画『アルファヴィル』の主演俳優の名前や、シェイクスピア『マクベス』の三人の魔女のシーンが引用されたり、影絵のシーンが幕間劇のように挿入されたり、物語が重層化していく工夫が随所になされている。スモーク、映像、紗幕、手動式回り舞台などを多用するにより、必然的に生じる多くの舞台転換には、初日のせいか、少なくない失敗も見られたが、見ていて嫌な感じはあまりしなかった。むしろ、個々の短いシーンが言葉ではなく沈黙によって多くを語ろうとしている点は印象に残った。音響は音質だけでなく、作品自体との関係という点も含め非常によい。

C-1 劇団西一風『ピントフズ』

労働者たちがひたすらコンベアで流れてくる小さな段ボール箱に霧を吹きかける。たったそれだけの単純作業を、さも当然のように登場人物たちが繰り広げるところが、演劇的なリアリティを構成していたといえる。霧吹きが、なぜか「ピントフ」と呼ばれ続けているところも、ナンセンス・コメディの王道とも言える仕掛けである。「ピントフが爆発」したり、まるで人格を持ったように、コンベア伝いに攻めてくる様子は、それだけで不条理コントの笑いを誘うに十分である。残念だったのは、俳優の演技設計に、やや混乱があったところか。「日常的に立つ」ことと「一見日常的に立つ」こととの間の微妙な差異にこそ、ナンセンス・コメディのおかしみが出てくるのだが、登場人物から自然におかしみが漂ってくるところまで至るまでには、もうひと工夫の演出が不可欠だろう。「コメディ」とは異なる存在のドラマに至りたかったのだとしたら、無言の場面の表現に、「なにもしないこと」のリアリティがもう一歩立ち上がっていく必要があった。

C-2 遊自由不断、『花満たし』

学生の三角関係が、実は一人の心に傷を持った女子大生スミレの心を射止めるナンパゲームであった、という設定。気障でニヒリストのマツユキに、スミレと幼馴染みの正直なアオイが喰ってかかるが、スミレは結局マツユキにだまされ、どん底に突き落とされていく。そんなこの作品においては、それぞれのキャラクターの声にならない声が、字幕でスクリーンに投影される、という、最近の現代演劇で使われ始めた手法を採っているところに特徴がある。さらには、透明なプラスチックボックスに花が満たされたり、失われたりする映像が、スミレの内面を象徴する道具立てとなっているのだが、さすがにこれはちょっと説明的すぎる。映像のアイディアは思い切って捨てて、むしろオーソドックスな恋愛劇にチャレンジするべきだったかもしれない。45分という制限時間も災いし、スミレの内面のリアリティに観客が共感する以前に、あわててストーリーを追いかけるだけに終わってしまった。

C-3 ソリューションにQ『ハムスターの逆襲2106』

創作に悩む小説家が、書きかけの自作のSF世界に迷い込んでしまう。他でもない自分が創作した登場人物たちとともに、ハムスターの侵略に抗う地球防衛の戦いに加わった主人公は、作者の特権を駆使して連戦連勝しつつも、いつしか形勢は逆転して絶体絶命のピンチに陥る。一定以上のIQを持つ者は必ず死ぬウィルス兵器の使用を決断した主人公の自己犠牲は、実はそれ自体が作者の創作であり、編集者に評価される、というオチを持つこの物語の面白さは、主として大真面目なドラマのパロディやギャグの部分に集中している。逆にいえば、普通のドラマ部分の展開がうまくいっていないため、メタフィクション的な転覆に説得力を欠く結果に終わっている。俳優は魅力的なだけに、もう少し工夫の余地があったはずだ。

D-1 劇団速度『破壊的なブルー』

客電下で始まり、客電下で終わる。声に出して発せられる台詞はほとんどない。ブルーシートに散乱したゴミの上で、三人の登場人物が息づいている。同じシーンが4回反復され、少しずつ何かが付け加わった後、物も言わずに座り込んでいた赤い毛布の女が立ち上がり、高架下に響く列車の轟音のなかで、黙って見上げる三人と、そして、彼らと無関係に下手の水槽の世話をし、最後に彼らをブルーシートに包んで葬り去っていく眼鏡の男。ト書きも含めて表示される字幕は、やがて拡散し、ホワイトアウトする。――ここで展開されているのは、きわめて野心的な「実験演劇」である。俳優も健闘している。だが、よく出来ているはずなのに、なぜかあと一歩の驚きがない。俳優の「立ち方」に、演出家が何を求めているのかがもっと明確に現れてもいいはずで、その分、全体が「段取り」のように見えてしまうことも否めない。構成自体は非常に優れていただけに、その点だけが惜しまれる。

D-2 幻灯劇場『虎と娘』

「夜の地下鉄には、差別された動物たちが生きる草原が広がっている」・・・言葉遊びとレトリックを駆使したファンタジーは、とりわけ初期の野田秀樹的な世界を彷彿とさせる。ヒトトラとアノネの関係は、ヒトラーとアンネの関係から離脱しようとする。地下を駆けまわるトラの舞いは、見ごたえがある。椅子や懐中電灯の使い方も、舞台の空気を動かすだけの力がある。ただ、中盤以降、「身体」の見せ場が徐々に減少するにつれ、レトリックがやや空転し、テンポを阻害していた点は惜しい。野田秀樹的なレトリックは、レトリックが生まれる端からそれらを置き去りにしていく身体の運動が伴うことで、はじめて活きるものであることを実感させた。さもないと、慣れてくるにしたがって、若干甘ったるく感じてしまうのだ。野田的な世界としての完成度という意味では、かなり高い。

D-3 劇団紫『木のせい』

不治の病を患うカスミ、その友人ユリカとソウタ。三人の主要な登場人物を見守るのは、彼らが子供の頃からよく遊んだ思い出の「木」。その「木の精」が、時空を飛び越えて三人の人間関係に関わろうとするのだが、その「木の精」のあり方が、いかにも取ってつけたようで、その強引さが面白さとなっている。ただ、この方法はあくまでも「飛び道具」としての面白さであり、彼女が普通の狂言回しの役割を演じ始めると、「飛び道具」としての魅力が薄れ、強引さがマイナスに転じてしまう。台本のレベルで辻褄を併せようとしすぎたことが、かえって仇になったかもしれない。自分たちの面白さがどこにあるのかを自覚的に把握する冷静な距離感も必要だったはずだ。

E-1 青月ごっこ『お悩み、遅っくおん!』

他人と同じように生きられないアサヒの前に、彼女にしか見えないヨドが現れる。鏡像のような二人の関係を結びつけるキーワードが「発達障害」であることが、物語の終盤で明らかになる。着眼点は悪くないが、ストーリーの展開もキャラクターの造形も、よくあるパターンに陥ってしまっている点は残念である。3人の俳優で、多くの配役をカバーしようという頑張りはあるのだから、45分間という時間の展開の仕方に、自分探しをテーマにした「高校演劇」とは異なるテーマの掘り下げ方が工夫されてよかった。アサヒとヨドの即興風の日常芝居も、私の見た回に関しては、内輪ノリ的な感じが拭えなかった。

E-2 劇団月光斜TeamBKC『Sensibility』

典型的な「密室劇」である。5人の出自の異なる登場人物が、理由も定かでないまま、地下室に閉じ込められる。最初は一種のゲームかもしれないと高を括っていたのもつかのま、やがて、彼ら一人一人が借金を抱えていることが明らかになる――。物語には面白くなる要素があるはずなのだが、演技のトーンが、発端と大詰でほとんど変化がないことで、ストーリーの起伏が浮かび上がってこなかったことが惜しまれる。密室劇に不可欠な、緊迫した場の空気のようなものがなかなか立ち上がってこなかったのは、俳優が台詞に任せて不用意に動きすぎるせいもある。5人の人物が出会い、事件が起こるという展開は、それなりに複雑なので、語りの手順ももう少し工夫が必要だったのではないか。

E-3 スーパーマツモト2『泣けるモラル』

あえていえば、「未整理」な作品である。だが、整理する能力がなかったことによる「未整理」とは別の感触がこの作品にはあって、明らかに「容易に整理できないこと」を正面から扱おうとしていることによる必然的な「未整理」ではないかと思う。実際、断片的な情景の積み重ねによって進行するこの作品の時間は、聾唖者とその通訳による短い場面が二回繰り返されることで、かろうじて構造化されているのだが、たとえば登場人物の「声」をめぐる演出設計には(すべてがうまく行っていたとは断定できないが)明確な意思を感じることができる。すなわち、どの場面も、特定の誰かの「声」ではなく、不特定の「声」が断片的に客席に届くことで、この作品の群衆的な性格が明確になっている。キリストの磔刑と復活、1945年8月の朝鮮半島解放や、大日本帝国軍人のピストル自殺の「演技」が、時にきわどいポルノ小説のような猥雑さと「ごった煮」にされる。しかしその間、「どもることも思想ではないでしょうか」「モラルがないこと自体がモラルだ」といった印象的な絶叫が挟み込まれてくるのだから、舞台はほとんど予測不能な時間を生きることになるのである。これが完成形とはまったく思えないが、「モラル」という観念をめぐって何かを生み出そうとする試行錯誤の強度だけははっきり伝わってきた。



【プロフィール】

1968年生。演劇批評家。京都造形芸術大学芸術学部舞台芸術学科教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、及び機関誌『舞台芸術』編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長。主な著書に『舞台芸術への招待』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「チェーホフ/エドワード・ヤン:「現代」を描き出すドラマトゥルギーの「古典性」について」(『アジア映画で〈世界〉を見る』(作品社)所収)、「「記憶」と「感覚」――ユン。ハンソル『ステップメモリーズ』の衝撃」(『F/T12 DOCUMENTS』)、「〈ドキュメンタリー〉が切り開く舞台」(『舞台芸術』9号)他多数。

【事前メッセージ】

実のところ私は「学生演劇」という言葉を全く信じていません。学生のものであれ、プロのものであれ、それが「一本の演劇作品である/でしかない」ことに変わりはないからです。しかも恐るべきことに、演劇というジャンルでは、何十年もキャリアのあるヴェテランの作品が、高校生が丁寧に作った作品に惨敗することだって現実に起こります。だから、「学生」という皆さんの肩書きなど一切無関係に、虚心に拝見させていただきます。

・・・と昨年度は書かせていただきましたが、今もまったくその思いは変わりません、健闘を祈ります。

京都学生演劇祭アーカイブ

京都学生演劇祭の、今までの出場団体の情報・審査員からの講評等をアーカイブしていきます。

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