講評:森山直人 氏
総評
全体の内容を振り返る前に、一言。今回の学生演劇祭では、事前の大量の架空予約(?)によって、運営に大きな混乱があったように聞きました。私には詳細は知る由もありませんが、かりにそのようなことがあったとすれば、とても残念なことです。こうした困難に屈することなく、最後までフェスティバルを進行した運営スタッフの皆さんに、心から敬意を表したいと思います。
さて、総評です。
今回審査員として、12団体の作品を見て、その上で最終日の賞の発表、その後の懇親会につきあった感想としては、やはり、わたし自身が学生だった頃と同じように、いまの学生の皆さんも、それぞれに悩みを抱えつつ、「演劇」に対するそれぞれなりの思いを投入してこの場に臨んでいるのだな、という、ある意味では当たり前のことにあらためて感慨を持ちました。ひとつの基準で一括りにはできない、「それぞれの本気」というものが感じられたこと。そのことは、強く印象に残りました。
その上で、結果としての作品は、どうだったのか、ということです。
ただ、私自身は、「学生演劇祭」という枠組みにおける「作品」を、どこまで「作品」として評価すべきか、その点に、やや確信が持てずにいます。
もちろん、だからといって、わたしは、わたしも含めて3人の審査員が選んだ賞、観客投票でグランプリに選ばれた賞の価値を、おとしめたいわけでは全くありません。受賞した団体に、受賞に足るたしかな長所があったことははっきりしています。なにが優れていたかは、最終日の講評会で、審査員から申し上げた通りです。
ただ、それはそれとして、「学生演劇祭」という枠組みが、上演時間や使用可能な技術的条件などの点で、「自由に作品を創る」という観点からいえば、かなり大きな制約を参加団体に課していることは、間違いありません。
わたしは、高校演劇のコンクールを連想させるこの制約を、大学生が遵守することに関しては、率直にいって、やや違和感を覚えることも事実です。
けれども、だからといって、このようなフェスティバルに意義を感じないというわけでは全くありません。この場に参加する最大の意義は、ひとえに参加団体が自分たちの普段やっている作品を、同世代の他団体の作品と同じ立場で比較し、相対化することができるということ、そして、終了後の懇親会を通じて対話しあうことができることにあると言えるでしょう。
そして、賞をとるかとらないか、ということは、正直いって、あまり気にすることはないように思います。講評会の時、わたしは「賞をとった人たちは、今晩一晩しっかり喜んだら、さっさと忘れたほうがよい」という意味の発言を行いました。はっきりいって、学生時代にとった賞など、その後の人生にとってほとんど何の影響もありません。むしろ、賞をとった人が、かえってそのことに囚われ、いつのまにかそれが自分の殻となり、そこから抜け出せなくなってしまうことの弊害のほうが大きかったりもするのです。
したがって、ここでもう一度強調しておきたいのは、このイベントが、「コンクール」ではなく「フェスティバル」、つまり「お祭り」なのだ、ということです。だからこそ、賞をとった団体には、あらためて、ここで心からおめでとうと申し上げたいし、賞をとれなかった団体には、お祭りなんだから気にしないで、と申し上げたいと思います。
一番大切なのは、皆さんひとつひとつの団体が、自分たちの責任において、自分たちの好きなことを、観客の前でやりきることのできる自主公演の場です。この素晴らしいお祭りが、皆さんの自主公演を、一層刺激的なものに変えていくきっかけになれば、本当に意味のあるイベントだったということになると思うのです。ひとえにそれは、これからの皆さんにかかっていると言えます。
皆さん、おつかれさまでした。
個別の短評は、別欄に譲り、最後にここではもうひとつ、全体的な印象について、書き記しておきたいと思います。
今回の12団体を見て、他を圧して優れていた団体は、あまりなかったように思います。実力は、むしろ接近していたといってよいでしょう。
ただ、学生演劇の全体的なレベルが向上するためには、率直にいって、まだまだ勉強が足りないと思います。
変なたとえで恐縮ですが、かつて「漫画の神様」手塚治虫が、漫画家志望者の若者にどうしたら漫画がうまくなるかを問われたとき、「一流の本を読め、一流の音楽を聞け、一流の演劇を見ろ、一流の映画を見ろ」と言っていたそうです。いいかえれば、漫画だけ読んでいても、いい漫画は描けないのだ、と。
演劇も同じです。演劇のことだけ考えていても、いい演劇は生まれてきません。
(もちろん、だからといって演劇は見るな、と言っているわけではないので、可能なかぎり、プロフェッショナルの最高レベルの作品に触れる必要があることはいうまでもありません。今秋も、日本にもさまざまな一流の作品の来日公演が目白押しです。)
どうか、そうすることで、皆さんに「演劇」を、「舞台芸術」を、そして表現することを、もっともっと、心から好きになってほしいと思います。
では、表現することが好きになるためには、どうすればよいか。
どのように表現すればよいかを考えること自体を、心から好きになればよいのです。
これからも、どうか頑張ってください!
劇団愉快犯
「古畑任三郎」のテーマで始まり、きゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」で終わるこの作品は、要約すれば、刑事モノのパロディである。台詞やドラマトゥルギーなどの言語的要素は、「演劇」というよりも「コント」の文法に則って構成されているが、ダメ忍者の執拗なダメさの描き方を含めて、ナンセンスの味という点ではそこそこよくできている。役者の存在感はやや弱いが、90年代後半から東京の小劇場で流行った「脱力系」の方法とといっていえないこともない。とはいえ、それは形式的な新しさを狙っているというよりは、その手法そのものが自分たちにとってなじみ深いものだからやっている、という感じがした。ヘタウマとしての完成度(ウェルメイドなヘタウマ?)としては悪くないが、おそらく作り手にとっての身近な表現手段だけに依拠している分、新鮮さには欠ける。もっともっと面白くなるはずのネタである。
劇団洗濯氣
「魔法少女の時給」という発想は悪くないが、劇全体の前提として、「魔法少女」という観客へのフリ=フィクションになんらかの説得力がないと厳しい。「魔法少女」という言葉の響きの面白さに頼りすぎていて、その後に具体的な展開が生じていかないのである。かならずしも、「魔法少女」にかんする詳しい設定を積み重ねていくだけが方法ではない。むしろ内容を明かさないまま、ひたすら意味ありげな記号としてうまく機能させることもできるのだ。けれども、「冷蔵庫は魔法少女が裏で動かしている」といったセツメイは芝居の流れをかえって失速させてしまう。「裁判劇」という設定は、パロディかと思いきやシリアス劇で、ふたりの弁護士と裁判官をめぐる学生時代の三角関係、男の弁護士の陰謀、などの場面が中盤以降の展開を支えることになるのだが、ストーリーを前に進めることで精一杯という感じで、フィクションが立ち上がらないまま、どんどん手元から逃げていってしまう。陰謀めいた物語が立ち上がりかけたところでトウトツにおわる終わり方も、疑問が残る。もう少し思いついたネタを練り上げる必要があった。
幻灯劇場
「高齢化ののち消滅する地方都市」の最後の若者=少女が、東京に出て映画監督にスカウトされ、「望郷少女」という名の映画の主役に抜擢される。物語は、入れ子構造になったいくつもの場面がめまぐるしく展開していき、手法としてはNODA MAPのいわば「模写」である。言葉遊びや場面転換のリズムはそっくりだし、設定はどこか『農業少女』を思わせるが、ユメコという、もともとユメなどなく「ユメを持つことがユメ」という少女は、いつしか町おこしのユメに憑りつかれていくが、やがて挫折する。もう一度都会に出た少女は失踪した父親を探すことになるが、果てしない絶望と、かすかな希望との交錯を、言葉遊びをふんだんに取り入れた主人公のモノローグで書いていくあたり、一応最後まで書き切っている。ただ、わたしの見た回では、4人の俳優は、想像力の振り幅の大きい台詞に振りまわされてしまい、演技としての着地点を見いだせずにいたのは残念だった。全体の完成度は高い。
劇団二色
兄弟が、ひとりの女をめぐって争っている。兄シンイチは、根っからの悪人にみえる。他方、弟ヒロキとその彼女マナミは善人にみえる。クライマックスのシーンからいきなり始まった作品は、あいだにスタイリッシュなダンスシーンを唐突にはさみながら、終わりから発端にむかって、いわば少しずつ巻き戻されていく。すると、はじめは善人にみえたマナミが、実はヒロキの殺しをシンイチに依頼していた悪人であったことが、しだいに明らかになっていく、という構成である。問題としては、俳優が、ドラマが要求しているかなりのテンションをキープできず、ところどころで棒立ち・棒読みになってしまうところは単純に弱いし、物語自体も、「悪」を掘り下げる以前に、「悪の物語」の辻褄をなんとか合わせようとするところで終わってしまっていたのが残念だった。最初に思いつたストーリーを追いかけ過ぎたのかもしれない。膨らませるべきところを膨らませたら、最初のアイディアを大胆に捨てることが必要になる場合もある。
劇団蒲団座
設えは、至って単純である。恋の悩みを秘めて教会にやってきた少年のもとに、二人の女子=天使(ヨルとアサ)が現れる。少年は、傘をかしてくれた女の子に片思いをしている、二人の天使は、彼が「理想のオレ」になるためのシミュレーションを繰り返すことで、少年も少しずつ、何かを掴んでいく――効果的な単純化が劇を活気づける場合は、たしかに少なくないし、この作品についても、いい意味での諦め=潔さにつながっていた部分がなくはない。だが、30分弱という短い上演時間が終わった後に振り返ってみると、やはりもう少し、堂々巡りを抜け出す展開の工夫がほしくなる。
カルトジオ計画
「悪心」と書いて「おしん」と読ませる。「いろはす・桃味」が好きか嫌いか、といった、ささいな事柄から、恋人同士のあいだの亀裂がやんわりと浮彫りになる。しかし、そのことは激動のドラマに発展することなく、「牛のゲロ」をめぐる女同士の会話などに横滑りしていき、彼らはしだいにかみあわない不条理の網の目にはまっていく。上滑りしていく言葉の背後に、言葉にならない不機嫌=気分がかいまみえたり、一見それとは関係ないところで「吐く」という言葉がキーワードとして、しだいに増殖していく。かなり入念に「知恵の輪」を仕込もうとしているように見えたのだが、同時にそれが、次の展開を生み出す前に終わってしまった感も残る。もしかするとこの題材は、フェスティバルの時間的制約におさめることが難しいものであったのかもしれない。もっと長い時間をかけた展開が見たいと思わせる題材だった。
劇団ACT
きわめて興味深い作品だった。不本意な就活を終え、まもなくブラジルに赴任することが決まっているナカノさん、彼女の後輩で、明るい性格だが将来にかすかな不安を持っているミウラくん、高卒で地元の養鶏場に就職し、職場で外国人労働者に囲まれながら、大学生にコンプレックスを持っている屈折したタカハシくんの3人が、高校の同窓会で出会ったときの対話が物語の基調となる。言葉を交わせば交わすほどディスコミュニケーションが露呈し、表向きの穏やかさとは裏腹に、お互いの関係には亀裂が走っていく。その「不安」を明確に表現する言葉が見つからないまま、じわじわと崩壊していく関係に身を委ねるしかない「普通の若者」の「世界」に対する視線が、気負うことなく、堅実に描かれている点がよい。終盤で、「「ブラジル」と書かれた字幕映像を前にぼんやりたたずむナカノさん」を描いた場面は、テクニカル的にはもう少し上手な処理があったかもしれないが、上演時間を通して、静かな劇的緊張感が途切れず、見ごたえのある作品に仕上がっていた。
ナマモノなのでお早めにお召し上がりください。
ひとえに、ストーリーこそがこの劇の要であり、そこには書き手である主宰者のはっきりしたこだわりが見える――そこが、まさに「個人ユニット」である由縁なのだろう。「天才画家」をめぐる2人の女子美大生の闘いという骨格は、かつてのスター佐藤珠紀の挫折に終わる。彼女は、「天才」の座を奪い取った木戸正実に、自分の姿を描いてほしいと懇願し、かつ、正実の前で自殺をはかる。正実は狂気に陥り、会心の作とともに同級生の前から消えていく。パターンとしては、たとえば1980年代に世界的に流行った舞台/映画『アマデウス』(天才モーツァルトを題材とした作品)のパターンであり、また劇画でも取り上げられそうな物語である。つまり、ある意味では、「よくあるパターン」である。
もっとも、ありきたりであること自体は決して悪いことではない。だが、たとえどんなに書いた瞬間は愛おしく見えたとしても、舞台にかけるときは、もう一度、俳優という他者の身体を通して受肉する自分の言葉をつきはなし、ライヴとして成立しているかどうかを再度検証してみる必要があるだろう。実際のところ、大事な台詞のかなりの部分が、効果音に負けるなどして聞き取れなかったのは残念だったし、紙の上でしか成立しない言葉も少なくなかった。意欲的な作品だっただけに、そのあたりが惜しまれる。
劇団立命芸術劇場
「演劇論」を演劇にする、という発想はよい。「葬式」という儀式的(=シアトリカル)なセッティングをうまく入れ子構造に用いて、シリアスとコメディのあいだをたえず出入りする、という方向性もよい。4人の登場人物(全員男)は、「よい演劇」を、「女性との気持ちいいセックス」にたとえようとするのだが、そのあたりはいかにも学生演劇にありがちな「男の子」っぽさに傾きすぎているかもしれない。けれども、ともかくこの作品には、一種の「潔いあきらめ」というべきものがあり、ウチワウケという反則さえ辞さない態度がライヴとしての活気につながっていて、今回の出場団体のなかでは唯一、心から笑えた作品だった。難を言えば、「・・・みたいな」で「素」に戻るという手法が、45分間で5回も繰り返されるとさすがに少しクドいし、せっかくの勢いが失速しそうになる。クドさをエネルギーにかえて反転攻勢に転じるアイディアが、もう少し工夫されてもよかった。
ヲサガリ
無数のトイレットペーパーを重ねてつくった「壁」が、薄暗い光のなかにぼんやり浮かび上がる冒頭の絵は、とても魅力的だった(おそらく舞台美術という点では、今回の出場団体のなかでは一番の出来であった)。トイレットペーパーを壮大に無駄にする「雪合戦」のような遊びは、役者がたぶん舞台空間の大きさに充分慣れていなかったため動きがやや鈍くなっていた点をのぞけば、スペクタクルとしてはそれなりに見ごたえがあるし、メッセージ性もある。「キャンディーズをカバーする地下アイドル」という設定にはやや無理を感じたが、緊急停車した地下鉄の車内で(停電した瞬間、しばらくは真っ暗闇のなかで俳優の会話がなされる)、高齢化していく「ニュータウン」に対するそれぞれの思いを語らせる、というドラマトゥルギーは面白い。それぞれのモノローグのなかで描写されるニュータウンの風景も、劇言語としてある程度工夫されていて、ややダイナミズムに欠ける部分はあるが、好感がもてる作品だった。
plofile
1968年生まれ。演劇批評家。京都造形芸術大学芸術学部舞台芸術学科教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、及び機関誌『舞台芸術』編集委員。KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員長。主な著書に『舞台芸術への招待』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「チェーホフ/エドワード・ヤン:「現代」を描き出すドラマトゥルギーの「古典性」について」(『アジア映画で〈世界〉を見る』(作品社)所収)、「「記憶」と「感覚」――ユン。ハンソル『ステップメモリーズ』の衝撃」(『F/T12 DOCUMENTS』)、「〈ドキュメンタリー〉が切り開く舞台」(『舞台芸術』9号)他多数。
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