講評:田辺剛氏
総評
審査会では、まず各審査員が議論の対象にすべきだと思う5作品を挙げるように求められた。わたしは、劇団紫・喀血劇場・劇団月光斜・劇団愉快犯・同志社小劇場を挙げ、そのなかでも審査員特別賞として相応しいものとして劇団紫を一番に推した。喀血劇場を劇団紫と甲乙つけがたいものとして、劇団月光斜はそれらの次席とした。劇団愉快犯と同志社小劇場は印象に残る作品として挙げた。
劇団紫は、むしろ瑕疵が目立つ作品ではあった。主人公の青年がほぼすべてをモノローグで説明する。登場人物が去るときですら「彼は去っていった」と言うほどだ。小説の朗読みたいなものだと劇の始まりでわたしは思った。その方法に演劇としての魅力をわたしは感じないし、その思いは今でも変わらない。しかしそのモノローグが延々と続いても、わたしは劇に飽きることなくむしろ集中していったのだった。惹かれるのが不思議だったが、それはモノローグの台詞や物語の構成が実に安定していて、それらを通じて示される作家の世界観が揺らぎなく表現されていたからだ。天使に多くを語らせなかったのも良かった。演出も、場面の転換からちょっとしたモノの出し入れまで隅々まで気が使われている。戯曲にしろ演出にしろ、ここまで繊細に作られている作品は16作品のなかでも他にはなかった。
天使を登場させる安易さ、そのわりには「天使のはなし」になっていないタイトルのマズさ、どう見ても天使は座っているだけなのに「ひっかかっている」というバレバレの嘘、天使の座る鉄塔の大きすぎる装置と、横一線で他のモノと並べてしまう雑な空間構成、こうした粗はもちろん看過できるものではない。しかしそれを差し引いても、シンプル台詞、骨太な構成の戯曲、細かいところに垣間見える丁寧な演出の跡は、この若い劇作家・演出家のこれからを期待させるのに十分だった。
喀血劇場は、作品として十分に出来上がっている。詳しいことは個別評に譲るが、そのまま他の地域の劇場に持っていっても十分に通用するし、きっと注目を浴びることになるだろう。いわゆる完成度としては一番だと思った。
そこでわたしは悩むことになる。劇団紫と喀血劇場とでは評価の切り口がまったく別で、どちらを選ぶかは「審査員特別賞」がいったいどんな意味を持つ賞なのかということにかかってくる。これが作品賞、つまり作品の出来だけが判断基準であるならば喀血劇場に間違いない。けれども今後への期待などさまざまな要素を判断基準にして決める「特別」な賞というなら劇団紫だ。わたしは考えた結果、後者のようにこの賞はただの作品賞ではないとして劇団紫を一番に推すことにした。ただし喀血劇場を否定するわけではないので、他の二人の審査員が喀血劇場を推すならば反対はすまいと決めた。
果たして審査会でも賞の定義が問題になった。そして観客に点数をつけさせてその平均値で決められる賞(大賞)は作品賞だということで意見は一致した。点数をつけるのに今後の期待を込めてという人もきっといたに違いないだろうが、数字になった後ではそうした事情は関係無い。大賞がそういうことだから、議論によって選ぶ審査員特別賞は、作品の出来だけではなくさまざまな要素を勘案して決めようということになったのだった。
そうするとわたしとしては劇団紫なのだが、いかんせん、それは他の審査員お二人が5つ挙げる作品のなかにすら入っておらず、わたしの夢は叶わなかった。
劇団月光斜は、他のお二人も優先度が高いところで挙げていて、喀血劇場との二者択一になり、長い時間を経て選ばれた(賞そのものの議論の時間が含まれる)。詳しくは個別評に譲るが、わたしも受賞には(劇団紫を除けば)異存はなかった。
16作全作品を観てはじめてさまざまな人材がいるのだと分かった。逆に言えば、すべて観ないことには見つけられないということでもあった。今回出会った期待したい人たちには微力ながら応援したい。「学生」というのはあくまで便宜上の境界線だとわたしは思っていて、例えばわたし自身との差があるとすれば、それは年相応の場数の違いであり、そこで得た経験の量くらいだ。その差ですら、軽々しく越えていく若い人だって必ずいるから、結局は同じ地平で表現と向かい合っている、同士というと恥ずかしくなるが、そういうことなのだろう。ちょっと年長であるということでわたしに役に立てることがあるならばと思っている。
団体それぞれの、創作の動機の違いが作品の違いにそのまま反映しているのも印象に残った。観客席に座っているのが誰なのか。家族や友人といった身内だけで埋まっている客席なのか、あるいは見ず知らずの者がいるのか。そのことに無自覚だったり、身内向けの意識で創作されたものはやはり閉じているし、見ず知らずの他人に開こうとする意志のある作品はなんとかしてその表現の射程範囲を広げようとした跡が伺える。とはいえ、このフェスティバルでは否応無しに見ず知らずの観客に触れられることになるので、自身の創作について問い直すのにも良い機会になるのではないか。より多くの団体がこの機会をうまく利用してもらえれば、結果、演劇祭そのものの盛り上がりにもつながるだろう。そうした良い循環が続くことを期待している。
Aブロック
飴玉エレナ『転がる紳士たち』
一人で何役も演じ分けるその仕方で実現しているものよりも、損なわれているものの方が大きいと思う。声色を切り替えるその器用さはたしかなものだけれど、むしろその切り替えに依存する演技観がわたしは気になった。そして立ち位置をずらす瞬間に生じる劇の中断だ。そのずらしも歩幅の範囲内の半端な移動で、劇場の空間をどのように構成するかというときに、舞台が矮小なものになってしまう。劇が細かな中断の積み重ねになるので、それを前提とした脚本は、複数人物のやり取りにどうしても焦点が絞られて、結果プロット(あらすじ)の提示以上に人物や状況を掘り下げて描くことができない。せっかく一人きりなのだから、一つの役を徹底して演じるという作品に取り組まれた方が、脚本も演出も俳優自身もやりがいのある作業になるのではと思う。
演劇実験場下鴨劇場『宇宙の果て。』
すべては夢だった、とか精神の病いが見せた幻のイメージだったというオチが危ういのは、その内容が何でもアリになってしまうからだ。シーンの断片、あるものは不可解だったり他のものとのつながりが分かりにくいようなものの集合でつくられた作品だが、結局宇宙の果てが精神病院だというオチが残念だった。そんなオチなどつけずに、皆が宇宙に散って欲しかった。また、登場する男女のお互いの思いが作品の核であり、物語を進める原動力だろうと思ったが、台詞のやりとりだけで身体がついていかないので、ただの理屈になってしまう。だから劇全体もぼんやりとしたものになってしまったと思われる。
劇団蒲団座
『This is a pen の絶望 〜ミニミニ王国を封鎖せよ!〜』
あまりにベタな話で、演出はバカバカしく、畳み掛けるように劇は進んでいく。それにわたしは呆然としていたが、その劇を突き進めていく力に次第に感心するようになった。現実から異世界を旅してどこにたどり着くのかということについては最後に放棄されていて、ループするというわけでもなく不意に劇は終わる。その幕切れに作家の無責任さを感じはするものの、そういう責任だとか何だとかも関係ないところで突っ走っているのだろうかと考えれば、ある意味初志貫徹とも言えるのかもしれない。
Bブロック
劇団月光斜『僕と殺し屋とレインポップ』
はじめにいるのが無職の殺し屋と老人たちだった。はじめがこの二者であるということが、多少大げさに言えば、作家の世界観を象徴していると思いとても興味深かった。テンポの速いリズムで進む劇には無駄は無く、細かなところも雑に扱われてはおらず舞台の世界に引きつけられた。ただ、すでに何度も語られたことだが、後半で物語の構成がまったく変わってしまったのが残念だった。うまく切り替える技を身につけるか、作家が自身の欲求を退ける決断があればと思う。
コロポックル企画『すぐ泣く』
神が男性に音楽の能力を与えるのに彼の頭の中に音楽を響かせるというその仕方、また、登場人物の会話の途中で不意に遮るように雨音が入ってくるという演出。そうした興味をひくアイデアがいくつかあったのだけれど、それらがその場限りのものであったのが残念だった。そして結局、精神病院オチだということ。そういう安易な決着ではなくて、もっと格闘して劇世界を閉じて欲しい。
虹色結社『はこにわ』
今回の演劇祭では天使や神が出て来る作品が複数あったが、こうした全能者が登場する作品はほぼ失敗する。それは脚本では、そうした全能者が作家にとって都合のよいだけの道具になっているということ(執筆に詰まったら奇跡を起こせばいい)があり、一方で宗教の問題については元から考慮には入っていない。演出では、無能な人間(演じる俳優)と全能者との溝を埋める工夫ができないことによる。漫画やアニメの無自覚な影響もあるのだろうけれど、作品を創るということはそうした己の無自覚さを知る作業でもあるはずだ。虹色結社も残念ながらその例外ではなかったように思う。
ヲサガリ『それからの子供』
子どもの台詞を書くことやそれを大人が演じるのはとても難しいとわたしは常々思っていて、成人の者同士で成り立つ会話や人間関係と子ども同士のそれとでは、その成り立ちの根拠はまったく違う。素朴に自身の幼少期を思い出せばできそうな気がするがなかなかそうはいかないから厄介だ。ヲサガリの作品にしても、登場人物が自分を子どもと言うけれど、その会話の論理や感情の変遷は成人のそれとまったく同じで、わたしは納得できなかった。またスタンドに立てた自転車を漕いでいるのを見て走り回っているそれを想像するにも無理があるし、大切なはずの女の子をどうでもいいような場所に置いてしまう演出の空間構成も工夫の余地があるのではと思った。
Cブロック
KAMELEON『新しい下宿人』
家具に見立てたモノがカラフルで、それらが積み上がっていくのは視覚に楽しい演出だったが、全体としては戯曲をなぞってみたという域を越えなかったように思われた。戯曲に対して演出の応答が十分にできず、特に残念だったのは冒頭の女性の家主が大仰な身振り手振りで騒いでいるだけになってしまったこと。この女性と新居人とのやり取りで劇世界の土台が作られるところなので、ここが場面として「あってもなくてもいいんじゃないか」という程度のものになるのはもったいない。また荷物が運ばれる過程ももう少し工夫があればと思った。
劇団テフノロG『空想世界の平均律』
恋の話を演劇にするには技がいる。恋の話というのはだいたいパターンが決まっているし、舞台の男女が葛藤しているのを観るだけでは面白くない。そういう葛藤を観客はみな分かっているからだ。分かりきったことをわざわざ演劇として舞台で見せるということ。戯曲で、演出で、俳優の演技で、それぞれで工夫をこなさないと演劇作品が「分かりきったお話」を越えることはない。この作品ではオンラインと現実のはざまという設定があり、そこからどう物語を膨らませるかが肝心なところだが、その設定自体もその後の展開も、すでにどこかで見た感を拭うことができなかった。設定はあるし台詞もある。けれども生身の身体で演じてみせるモノはなかったように思われる。身体が火照ったり重くなったりフワフワしたり、身体がジェットコースターのように上がったり下がったりするのが恋愛だろうとわたしは思っているので、そうじゃない恋愛があるとするならばかえって好奇心がわくが、この作品にはそもそもそうした志向がないように思った。
劇団愉快犯『作り話』
劇中に出てくる登場人物の「滑舌の悪い男」が素晴らしい。笑った。こうした登場人物の発明はそれだけでも評価に値する。あの滑舌の悪い男を軸に物語が回ればどんなに楽しいだろうと思うほどだった。しかしそうはならず、孤児院の同窓会であることや、ケンイチの家族事情といった種明かしから幕切れに至るくだりは情緒ばかりになってしまい、しかもまさしく説明で内容もありきたりなので、尻すぼみになった。
Dブロック
喀血劇場『わっしょい!南やばしろ町男根祭り』
男根だセックスだという描写をスキャンダラスに演出した代償は、鴨漁のくだりのように生業が代々受け継がれるという村のありようをを陰にしたことだ。男根祭りも鴨漁も同じ地平で語られて、はじめてその共同体の像が浮かんでくると思うが、片方に寄った演出が両者を別個のものに分けてしまった。しかし、それも場面を畳み掛けるようにつなげるリズムなど観客を飽きさせまいとする演出のためには必要な選択だったかもしれない。事実、理屈抜きにわたしは楽しんだし笑った。問題はそれで十分とするか否かだ。十分だとすれば、祭の後で警察に連れて行かれた以外の人物たちが描かれなかったことも問題にする必要はない。
劇団立命芸術劇場『行き当たりばったり』
舞台の上で現実には起こりえない出来事が起きてももちろん構わないのだけれど、それには観客の頑な常識にも対峙できる強度がなければすぐにも劇世界は崩壊する。つまり、ある不動産の物件が同時に二者によって契約されるというのはまずは起こりえないことで、その紛争の解決を当事者に任すことはさらにあり得ないし、結局お互い他の適した物件を見つけられるならばまずは仲介業者が提示するはずだ。作家の頭の中では成立したのかもしれないが、現実と照らし合わせれば無理がある。そうした素朴な感覚をねじ伏せる仕掛けが劇にないのでわたしは結局劇世界に入れなかった。
劇団紫『天使のはなし』
話そのものはありきたりで、天使が出て来るのも危うく、というのも天使が出て来てうまくいった作品をわたしはほとんど観たことがないからだが、この作品は脚本と演出の構成がとてもうまくできていて、天使が出しゃばってこないことも良かったと思った。主人公によるナレーションによってすべてが説明されるのには、わたしは演劇としての魅力を感じないが、その「地の文」もまた淀みなく書かれているのである種の朗読劇と了解してわたしは観劇した。キャスティングもそうだが、俳優の応答もよくて充実した劇世界になっていたと思う。ヒラタさんは有望な劇作家・演出家だと思った。
Eブロック
コントユニットぱらどっくす『ノアのドロ舟』
「アイドルの方が増えすぎて一般人であることが稀少になった世界」という設定にとても魅力を感じた。それは自意識過剰な人間がはびこる今の社会への風刺に他ならず、そこでの笑いはヒットすればするだけ、その風刺を鋭いものにするだろうと予測した。しかし実際の作品では、その設定は「設定」というより「ネタ」の一つであってすぐに作品の核とは関係がなくなってしまう。ではその一方でなにがあるのかといえば、コントというには物語が長過ぎて、かといって物語を丁寧に編んでいこうという意図もないようなので、なんとも半端なものになってしまい、もったいないと思った。
同志社小劇場『国道X号線、Y字路』
ある未明に起きた事故現場にいた人物たち。互いにつながりを持たない彼らがどのような経緯で一つの場所に居合わせることになったのか、個々人のばらばらなエピソードが一つに収束していく過程を観ることになる。工夫を重ねてエピソードが収束していく様はよく分かったが、それが何かある美しさなり別の思考なりに連れて行ってくれるのかと思ったのだけど、わたしにはとある事故の報告に留まって見えた。また、床に直に座るなど、登場人物の視線が低くされている演出も不可解で、意味ありげなだけの雰囲気にしてしまっているのはもったいないと思った。
吉田寮しばい部『きずあと』
特に漁師の青年の、16年も仕事をしていて今さらになって仕事を嫌いだと言い始めることの不自然さや、憧れた東京行きを諦めることになるくだりがうまく成立していないのは、劇作家がその青年の思考を身体のレベルから起こしていないからだと思われる。16年続けている漁師が魚の臭いが嫌になるには相当なきっかけが必要なはずで、それがよく分からない。また、果たして「少年」が「自分の下手な絵で思い出が台無しになってしまう」気がするものなのか。少年と漁師という、多くの観客とは違う身体を持った登場人物の設定には興味をひかれるけれども、そのリアリティーがあまりに乏しいのが残念だった。そしてついにはなんのための回想劇だったのかもよく分からなかった。
田辺剛(たなべ つよし) 1975年生まれ。福岡県福岡市出身。劇作家、演出家。劇場「アトリエ劇研」ディレクター。京都大学在学中に演劇をはじめ、現在では演劇ユニット「下鴨車窓」を主宰し京都を拠点に創作をしている。2005年に『その赤い点は血だ』で第11回劇作家協会新人戯曲賞を受賞、2006年秋より文化庁新進芸術家海外留学制度で韓国・ソウル市に一年間滞在し、劇作家として研修する。2007年に『旅行者』で第14回OMS戯曲賞佳作を受賞。日本劇作家協会京都支部の事務局担当やNPO法人京都舞台芸術協会理事長も務める。
下鴨車窓のホームページ=http://tana2yo.under.jp
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